小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-20


                        ◇

白銀の月光も届かぬ暗い森の中。
しばらくすると、そこには、一匹の鬼だったモノが横たわっていた。


遠くで、カラスのギャアギャアと鳴く声が聞こえた。その音で、茫、としていた意識が戻される。
ふと、眼前の風景には、赤鬼が、大きな杉の幹にもたれ掛るようにして死んでいた。
先程まで威勢の良かった赤鬼はどうやら、たった今、息絶えたようだ。


ガクリ、と鬼の醜悪な顔面が力を失って俯く。
周囲には、よく見れば赤鬼の真っ黒な血液が、何か奇妙な芸術のように一面に散らされていた。その液体に特有の、気を失ってしまいそうなほど強烈な異臭がもうもうと立ち込めている。少しでも気を抜けば、立っていることさえ叶わないだろう。


その壮絶な芸術作品の中心に、自分は立っていた。
自分の細く白い指先は、真っ黒に染まっている。その黒くなった爪から、ぽたぽたと、やはり黒い水が滴っていた。
目にかかる前髪も、返り血を浴びてしまったようで、灰色から黒色に染まっていた。
なんとなく、指先を口にくわえると、期待通り赤鬼の血の味がした。

これも罰なのだろうか。僕には、鬼の血の味しか分からない。
どんな甘美な食べ物でも、僕の舌には感じられない。あの日にギーゼラからもらった、ケーキだって何の味もしなかった。唯一感じられることのできる味が、これしかないなんて、なんてひどい話だろう。

けれどさっき電車に撥ねられた時、自分自身から吹き出た血の色も、この赤鬼と同じように、真っ黒で、同じ苦い味がしたのだった。どうせ分かっていたことだったが、それなりにショックだった。やはり、僕は鬼子で、人ではないんだと。みんなと同じ、赤い血の通う人間ではないのだと。要らない再確認をしてしまって。ずっと感じたはずの無い、俗に言う“寂しさ”のようなものも感じてしまって。

赤鬼の足元の地面にできた、黒い水溜りを手に一杯すくう。それから口に含むと、これでもかと言うほど苦かった。苦く、その毒々しさに溶かされてしまうほど刺激的で。飲み込むと、まるで硫酸でも飲んでいるかのようだった。食道が痛い。喉を伝っていく液体は、そのまま僕の喉を焼ききってしまうのではないかと思うほどに凶暴だった。

それでもこの行為はやめられない。唯一感じることのできる苦味に、舌と喉とがだんだんと麻痺していく。

それは、少し、自傷的な行為に似ていて。
呪われたこの身体では、ずっと前から痛みや苦みしか感じることができなくなっていた。でも、それでも何も感じないよりはマシだった。
その唯一の感覚を求めて求めて、また僕は何度でも鬼を殺して鬼の血を飲む。だって、その瞬間、その痛みだけが生きていると感じさせてくれるから。
その刺激に浸っている時だけは、全てを忘れてこの行為だけに没頭できるから。


生きた幽霊の僕には、これ以外に生を感じる手段が無いから。




                         ◇


「はぁ~やっと着いた。ただいまー。」

太一とハツと一緒に、クソ寒い風の中を駅から歩き続けて、やっとの思いで家に着いた。玄関を開けて、電気を点ける。当然ながら誰も居ないわけなのだが、それでも我が家は暖かい。精神的な意味と、普通に温度的な意味で。

「にゃーん。」
リンリンリン、と鈴のなる音がして、廊下の向こうから、飼い猫のにゃん太が首輪につけた鈴を鳴らしながら近寄ってきた。

「わー、にゃん太ごめん。今ごはんやるから。ずっとドライフードだったからね、缶詰すぐに開けるからさ。」
とりあえず台所に行って、戸棚から缶詰を出した。猫を飼っている人なら分かると思うが、しばらく家を留守にするときは普通はドライフードを置いていく。なぜならドライフードは缶詰とは違い、腐らないので保存が効くからだ。

缶詰のフチに缶きりを当てて、キコキコと上下に動かして缶を開けた。後ろで、太一とハツが おぉー、とか言いながら感心して見ていた。

缶詰を開け終わって、皿の上に出す。隣で行儀よく待っているにゃん太の茶色い頭を撫でてやった。
「あ、水も替えなきゃ。まずい水でごめんよ。」
そう言って、水の入った茶碗を持って立ち上がろうとした時だった。


「よいよい、苦しゅうないわ。」


「へ?」今、どこかから聞きなれない声がしたような。「あれ、太一なんか言った?」
すると太一が首を振った。「いいや、僕なにも言ってないよ。今喋ったのはにゃん太さんだよ。」


「――― は?」


太一が大真面目な顔をしてそんなことを言うので、一瞬頭の中が真っ白になってしまった。
それから、恐る恐る足元にいるにゃん太に目を落とすと、にゃん太がその小さな口をゆっくりと開けている最中だった。



「おおぅ、やってもうたの。喋ってしもた。にゃーん。」