小説カイコ
作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-19
◇
何もない高原に、一本だけ独りで、立派な楡の木が生えていた。
楡の木が、下を見ると、沢山の小さな蟻が、行列をつくっていた。
楡の木は言った。
仲間が沢山居ていいね、独りぼっちじゃなくていいね、と。
すると蟻は可笑しそうに笑って答えるのだった。
僕らはみんな独りぼっちさ。それにこんなに仲間がいると、こんなに居るのに誰一人として分かり合えないことがはっきりと分かってしまう。余計に独りぼっちなことに気付かされて虚しいだけさ、と。
それでも楡の木は羨ましがった。
仲間が居ていいな、楽しそうでいいな。
だって僕は、小鳥さえ寄りついてくれない樹なのだから。
◇
それから、空港駅から改札を再度通って、迷わず空港の中のトイレに直行。好都合なことに、時間帯がいいのか誰も居なかった。着古したコートの胸ポケットから、黄色のチョークを取り出しながら、一番奥の個室の中へと入った。
鍵をかけ、きっとこれを見てびっくり仰天するであろう清掃員のおじさんに胸の中で手を合わせて謝りながら、よく磨かれたフローリング床に素早く円を描いた。時間が無いので壁部屋の概略のみで終わらす。普段ならきっちり描く、細部の方向を表す呪文字や、時間の渦の流れを無効化する韻、空間を凍結するための術号なんかは全て落書き程度で終わらせておいた。まぁ、このくらいだったら大丈夫だろう。
「でーきた。掃除のおじさん、本当にごめん。」
ふっと、完成した円の中に一歩踏み入れると、たちまち周りの風景がグルグルと左回りに渦を描き出した。真正面に見えていた、コンクリートのトイレの壁はたちまちに左回転の渦の中に吸い込まれるように飲まれていく。
……この壁部屋の回転はこの千年とちょっとの間、何度も何度も見てきたが、やっぱり慣れない。思わず目が回ってしまいそうだ。
グルグル回る渦に、少しずつ黒い色が混じり出した。黒色はだんだんと増えていき、それと同時に渦の回るスピードはゆっくりと、鈍くなっていく。
それからすっかり渦の回転がおさまると、さっきまで居た空港の風景から一変、目の前には真っ暗な夜空が広がっていた。冬らしく澄んだ大気の空を仰ぐと、白く輝く星がいくつも見えた。砂時計のような形をしたオリオン座が、キラキラととても綺麗にずっと向こうに見えた。
無事に着けたようだ、我島岡に。
カイコやハツは今、どこに居るのだろう。任史くんは、もう学校から帰ってきたのだろうか。ひよ子、三人のために買ってくれば良かっただろうか。
ちょっとだけ、そんなことを考えて、少しだけ平和な気分を楽しんだ。それから、一度ゆっくりと目を閉じた。
まぶたを閉じると、一瞬だけ目が見えなくなる。星も見えない、真っ暗。優しい闇以外には、何も無い世界。何も見えない世界。
けれど、“ 見えない ”ということは“ 未得ている ”ということ。
この世のすべては、所詮儚い鏡花水月でしかない。
鏡に映る美しい花や、水面に浮かぶ美しい月のように。目に見えてはいるが、ただそれだけ。触れることなどどうやったって叶わない。
なのに、人はみな、自分はこの素晴らしい世界に触れているのだと錯覚し、一人きりの孤独を埋め合わせようとする。群れる蟻のように、ただただ無意味に集って、散って、また集って。
本当は、みんながみんな、互いに絶対に混じることの無い暗い心の迷宮の迷い人であるのに。気付いているくせに、気付いていないフリを通す。
「なーんてね、僕も随分と臭い人間になったな。詩的なヤツは大嫌いのはずだったのに。フランクが懐かしいや。」
ふと、数十年前の友人、ギーゼラの恋人だった男のことを思い出した。フランク。やけに詩的で冗長な男で、よく張なんかと喧嘩していた。今思えば、微笑ましい思い出の数々である。
その時、瞳を閉じた、真っ暗な世界の中に、一筋光が走った。光の見えた方向に、目を閉じたまま、全神経を集中させる。その光は、若干赤みを帯びていて、鬼火のようにも見えた。……いや、あれは鬼だ。
見っけた。カイコの言っていた、例の赤鬼さんだ。
まぶたをあけると、はるか遠くの森の暗闇の中で、真っ赤な肌をした子鬼が嗤いながら走っているのが見えた。ギャハハギャハハ、とまるで馬鹿みたいに大声で吠え嗤っている。よほど周囲に妖気を撒き散らしているようで、鬼の通った跡には森の木がぐったりと萎びて倒れたり腐っていたりしていた。

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