小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第三話 ふりだし編◇-33


満月は、黒天の夜空のてっぺんまで昇っていた。
人の子が去った神社の中庭、湿った静かな微風と共に不吉な影が舞い降りた。黒い影は、白い砂利の上を音もなく、あてもなく、ただただ不安そうにそわそわと揺らいでいる。


「まあ、今晩はお客の多いことで。」


静寂そのものの神社の奥から、ふいにそんな声が響いた。やがて、本殿の奥の、暗がりの中から、小さな雲が生まれるようにそっと蟲神の姿が現れた。

「こんな惨めな姿になって。それでもなお、この地に何用があるのですか。」

たしなめるような、優しい声音が影に向けて発せられる。すると、今まで砂の上をゆらゆらと彷徨っていた黒いものは、ゆっくりと地面から離れ、ふわりと宙に浮いた。厚みの無い、影のような黒い形は、さらにゆっくりと形を変え、人の形になった。その、薄く黒い人影の頭部には、丸い穴が一つ、ぽっかりと空いていて、それはどうやらその影にとっての口であるらしかった。何となく察しは付きますね、蟲神は心の中で呟いた。多分、この影はさっきまで任史に付きまとっていた青服の鬼の残像だろう。

「最後にアンタにどうしても会いたくてね。」
影から中年の男の声が聞こえ、穴の形が発音するたびに口のように動く。影の口からは、喋るたびに青い、靄(モヤ)のようなものが溢れ、それに比例して影の大きさはだんだんと小さくなっていくようだった。

「最後、と言うと?」
「もう俺もオシマイさ。灰色の髪をした鬼喰い鬼がさっきまでいただろ?あいつぁ、タダ者じゃない。俺の血を美味そうに全て吸い尽くしてくれたよ。お陰様でこんな影みたいな姿になっちまった。」
「……そうですか。ではそれ以上喋るとあなたの霊気が靄となって、どんどん身体が消えていきますよ。無駄口を叩かず大人しくこの地より立ち去る事です。」

「相変わらず、冷たいことよ。」影が面白そうに揺らいだ。「もういいのさ。無様に生き延びたところで俺は所詮無力な下郎に過ぎない。だったらこうして言の葉として消えてゆく。アンタに少しでも俺の形見を残していきたいんだ。呪い言葉の形見をね。」
そこまで聞くと、蟲神は不快そうに眉をひそめた。……一体、この青い鬼は何をしたいのだろう。

「蟲神よ、俺だって元は人であったのだ。」
「……知っています。わたくしと違いあなたは人だった。」
影は、ますます小さくなっていく。一言喋るごとに、影は青い煙となって少しずつ消えてゆく。
「悔しいことよ、俺こそ蟲神の名に相応しい者であったのに。俺の化けの姿は億万の羽虫だ。田畑を荒らす、害虫の神よ。どうだ、美しいだろう?それが、何故アンタが蟲神なんだ。教えてくれ、どうしてなのだ。どうして蟲神はアンタなんだ。どうして、俺は神になれなかったのだ?」
「哀れですね。」蟲神は短く、けれどキッパリとした口調で答えた。「人の子が望んだからそのようになった、その問いに対しては何百年もわたくしはそう答え続けてきたでしょう。元々人の身でありながら神となることを望んだあなたは外道の道に落ち、ただの人喰いとなった。時には害虫の姿となり、人の子の田畑を荒らした。愚かなあなたが“特別”を望んだ結果―――― それが人喰いや災厄の虫として人の子から恐れられることだったのでしょう?
 わたくしだって神になど生まれたくなかった。あなたという鬼が存在したから、人の子らは苦しめられ、何者かに救いを求めた。救いを求める心がわたくしを生んだ。……そういうことです。何度も説明したでしょう。」

「467回目の説明ご苦労。」影の口が開いた。「どうだろうかね、本当に哀れなのはアンタだろ?“救いを求める心がわたくしを生んだ”だって?それはアンタの不幸な生まれを美化する言い方でしかない。アンタを生んだのは間違いなくこの俺さ。俺が居なきゃ人々はアンタを求めなかった。それくらい嫌でも分かるよな?」
「それは…」
「いいかい、確かにアンタは神様なんかに生まれたくなかったかもしれない。でもなんだかんだ言ったって、アンタはこの世界に存在していることが嬉しいんだ。この世界が大好きで、しょうがないんだ。
なのに、アンタの大好きなこの世界はアンタを神様とでしかここに存在させてくれない。思い出せよ、太一が村を駄目にしてしまった時のことをさ。人の子は力の無いアンタをさっさと見切って村を捨てて町へ出て行ってしまっただろ?信者を無くしたアンタは神として存在できず、死んでしまったのだったよな。ああ、哀れなことだね!全く!!
それからしばらくは俺の時代さ。アンタも居なくなったしこの地は最高に住みやすかった。村境の窮屈な川にはいい加減うんざりしていたんでね。」

もう嫌だ、嫌だ。無意識に蟲神は自らの顔を手で覆っていた。その仕草に調子が付いたのか、鬼はさらに言葉を続ける。

「ところが、だ。明治の幕開けと同時に少しずつこの地に人が戻り始めた。そうさ、人が村に戻った。すなわちアンタの復活さ。
俺はもちろん悔しかったよ。せっかく手に入れたこの土地が、俺が神のように君臨し完全に支配していた土地が、またアンタのものになったのだから。この屈辱は絶対に俺にしか分からない。
しかしアンタは罪負いし神だった。誰からも許されない罪を背負った太一の怨念は決してアンタを許すこと無くアンタを呪い続けた。許されない者は許されない者を生む。ああそういえば、聞いたよ?あの世で太一に 消えてしまえ! って言われたんだってね?ほんと神様失格だよな。んでもって、それでも許してもらいたいアンタは百年と数十年の間、カイの生まれ変わりを待ち続けた。それがあの任史とか言う男の子なんだろ。アンタの腹の内は分かってるぜ、カイの記憶をあの子から奪って、太一に与え、それで許してもらおう、って算段だろうが。どうだい、例の任史君は上手く騙し落とせたのかい?最近の子は賢いからさぞかし苦労したことだろうねぇ。」

言い終わる頃には、影の鬼はほとんど見えないくらいに小さくなっていた。消えるのももうすぐだろう。

「あっはは。言葉も出ないようだな、蟲神さんよ。」影が最後の力を振り絞って呪いの言葉を吐いた。「忘れるなよ。そうさ哀れな蟲神よ、アンタという神様は、――――――この世で一番、不幸なイキモノなんだ。」


蟲神が覆っていた手をはずすと、指の間から、空に浮かぶ、ただただ丸い月が見えた。
もう、鬼の影は無い。白く光る砂利の庭には何も無い。

「可哀想に。彼も私もこうなるべきではなかった。」
ふいに、涙がこぼれた気がした。人外の私に涙など流せるはずがないのに。
彼が鬼になってしまったのも、どうしようもない、不幸な理由があったからなのだ。神という、“特別”な存在を望んだのも、彼が自らが呪われた不幸の身だと思いたくなかったからなのだ。死に際に、私に呪いの言葉を浴びせたのも彼が自分より不幸な者を作りたかったから。自分より不幸な者を見て、安心して死にたかったから。

全て全て、分かってしまうのだ。彼の痛い程切実に幸せを求める心が。
けれど、この世にもあの世にも、彼を幸せにしてくれる世界など有りはしないのだ。私だって、きっとそう。常に満たされない思いを抱えて、この先もずっとここで蟲神として存在するのだろう。……なんて事、ずっと前から分かっていたのに。今更鬼の言葉で、こんな悲しくなるなんて。

「私もまだまだですね。」
ふふ、と自嘲を込めて白い月に笑いかけた。その声も、優しい夜風がそっと消し去っていく。

今晩はこの月を見ていよう。
幸せを求めた青い鬼の供養も兼ねて、そんなことを一人想った。