小説カイコ
作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第三話 ふりだし編◇-27
冷たかった。
暗い、冷たい、水の中。
冷たさを感じる体はもう無いはずなのに、心の底まで迫るような冷たさだけが、自分を包んでいる。
何も感じナイ。
なにモ分かラナイ。
ナニモオモイダセナイ。
ここは暗い藍色の世界で、少し上から、細い光の柱が差し込んでくるらしかった。キラキラと温かいその光は、きっとさっきまで居た世界の名残なのだろう。
冷たい、水の中に一人。
その光は、どんどん遠ざかっていって、細くなっていって……やがて、見えなくなった。
少しずつ、ゆっくりと、下へ下へと落ちてゆく。
けれど何だか、とても心地よかった。
昏い世界には本当に何もない。音もしなければ匂いもない。そんな静寂は、もう僕があの光の世界へ戻れないことを自然と諭してきて、ただただ怖ろしい。
けれど、どうしてか、この暗闇はとても優しいものだった。
今は何も思い出せない僕だけれど、どうしてかあの光はあまり好きになれなかった。さっきまで居たらしいあの光の中に、帰りたいとはあまり思わない。
それに比べて、此処は優しい。
冷たい水の中を下へ下へと落ちていくだけでいい。何もしなくていい。無機質な暗い水が、ただただ僕を優しく包んでいてくれる。
きっと、これは、あの世界では手に入らなかったものだ。
それが何なのかやっぱり思い出せないけど、ずっと欲しかったものだ。これが、ずっと心の中で求めて止まなかったもの。
それから、僕は考えることを止めた。
止めた、というのは少し違うかもしれない。考えられなくなったのだ。
“僕”として存在していたものが、だんだんと周りの暗闇に溶けていく。きっと最後には、僕と他を区切っていた境界は無くなって、僕は暗闇の一部になるのだろう。
“ジブン”が無くなっていく感覚は、ただただ心地が良かった。
永遠に続くような、この安心感は一体なんなのだろう?
でも、これでいいんだ。
これでいい。
これがいいよ、おかあさん。
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それから、どのくらい経ったのだろう。
とても長い時間だった気がするし、とても短い時間だった気もする。
いきなり、焼けつくような白い光がさしたのだ。
その一瞬で、僕の、僕だけの理想郷は消え去ってしまった。あの、冷たくて優しくて、大好きな暗闇はもうない。
気が付けば、周りは純白の光の世界。
僕の目の前には、綺麗な女の人が一人、立っていた。
長い黒髪は腰まであって、目は人間離れした綺麗な若草色をしている。優しい曲線を描く唇は、何かみずみずしい果実を連想させる桃色で、着ている服は雪のような白色だ。
そんな綺麗な人なのに、僕はこの人に敵意しか覚えなかった。どうして、どうしてこの人は僕の大好きな、あの暗い世界を奪ってしまったのか。
「あなたは…誰ですか。」声は出なかったけれど、僕はほぼ無意識にそう問いかけていた。
「あなたが殺した者ですよ。」透き通るような綺麗な声で、その人はそう答えた。
「……僕が?」殺した、という言葉に身震いを感じた。
「ええ。」ゆっくりと、優しい表情のまま頷く。「そうですね、村では蟲神、と呼ばれておりました。」
蟲神、その言葉を聞いた瞬間、パン、と自分の中で何かが弾ける音がした。
一瞬のうちに、今まで色の無かった僕の心の中に、うるさいくらいに鮮やかな色が戻った。あの世界で起こったこと、僕が犯してしまった罪、僕のずっと欲しかったもの、僕の好きだったひと、僕の死の瞬間。
全てすべて。忘れてしまっていて、忘れてしまっていたかったこと。忘れていれば永遠と優しい暗闇の中で居れたこと。
「思い出しましたか?」少し、心配するような表情で再び女の人が口を開いた。
「あんたが、あんたが蟲神!」反射的に噛みつくように叫んだ。「あなたのせいで!あなたをずっと信じていたのに!」
「ありがとうございます。」蟲神は笑顔になった。「ありがとう、私を信じていてくれて。とても嬉しいです。」
「信じない!」心の底の、真っ黒でドロドロとしたところから溢れ出てくる怒りと憤り。全てぶつけてそう叫んだ。「信じるものか!助けてくれない神など信じるものか!お前なんて居ないんだ、存在しないんだ、消えてしまえ、そうだ、消えてしまえばいい!!お前なんて消えろ!」
すると、蟲神は優しい笑顔のまま、残念そうに、少しだけ哀しそうに俯いた。
「ごめんなさい。どうすることもできなかったのです。けれど神は、神という存在は、人を助ける事などできぬものなのですよ。
人が、私たちが救ってくれると思うのは、人が神を信じているからなのです。神様なら助けてくれる、許してくれる……そのような人の、私たちを想う心が、周り廻ってその人自身の心を救っているのに過ぎないのです。
たとえ貧しくとも苦しくとも飢えていようとも。頑張って生きていれば、神様はちゃんと自分を見ていてくれる、きっといつの日か自分たちに褒美をくれるに違いない……そう考えることができれば、苦しみの満ちた世界でも人は生きていくことができるでしょう?そうやって人は、神を信じることで自分自身を救っているのです。
賢い太一よ、もうお分かりでしょう。そう、私たち神というものは最初から何もできぬ、無力な存在なのです。
けれど私は嬉しい。太一が、それでもなお私を信じていてくれてとても嬉しく思います。」
「信じない信じないしんじない!」僕は蟲神から逃げるように言った。「お前なんて信じない、消えてしまえ!」
すると、蟲神の、指先や足の先、艶やかな黒い髪の先が、うっすらと透け始めた。
「ああ、哀しや。」蟲神が自身の消えてゆく身体を眺めながら言った。「私を信じる者はどこにも居なくなってしまった。嗚呼、哀しや、哀しや。」
だんだんと、蟲神を蝕んでいく透明は、広がっていくようだった。
その様子を、太一はただ茫然とした目で見ていた。
「けれども、わたくしは嬉しいのですよ。」消えゆく体で、蟲神は優しく告げた。「信じる者が居なくなった神は、もう神としては存在できません。だから私はこうして消えていく。太一よ、あなたは私を殺した。」
「……消えろ、はやく消えろ。」擦れたように、太一はそう言った。
「ええ、もうすぐ消えましょう。」蟲神はゆっくりと若草色に輝く瞳を閉じた。「けれど可哀想な太一よ。わたくしはこれで神としての役目を終え、今まで背負っていた神としての、人に叶わぬ期待をされる苦しみから逃れることができる。わたくしは嬉しい。けれど、可哀想な太一よ。」
「次は、あなたがその苦しみを負う番なのですよ。」
そう、最期に囁くと、そこにはもう、蟲神の姿は無かった。
消えたのだ。蟲神は死んでしまったのだ。
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それから気が付けば、僕はあの、真っ暗でも真っ白でもない、色多きあの世界に戻っていた。
どうやら僕は生きた体を取り戻したらしい。けれど、人の体ではない。どうしたことか蚕の身体であった。
沢山の人と、神を殺した僕に下された罰。
どんな罰なのか、誰から教えられた訳でもないが、何となくやるべきことは分かっていた。
今まで蟲神が背負っていた苦しみ、それを蟲神亡き今、僕が受け継ぐこと。
それは、どうせ叶わぬ人の、願いを少しでも叶えてやること。
そうやって少しでも、人の心を救ってやること。
どうやってやればいいのか、今の僕には見当も付かないけれど、時間は有り余るほどある。ゆっくりと、この罰を味わっていこう。
その晩、蚕の身体で、僕は糸を作った。絹糸だ。
自分の身体を絞るようにして作る絹糸は、綺麗だった。
人だった頃は分からなかったけれど、蚕はこんなに苦しんで糸を作っていたのだ。
僕は決めた。
僕が駄目にしてしまった蚕の数だけ、その蚕が作るはずだった糸の量だけ、僕の罰が終わるまで作り続けていこう。
どうしてかそうすることで、僕は少しでも許される気がしたのだ。
許してくれる対象さえ思い浮かばないけれど、そんな気がしたのだ。

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