小説カイコ
作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-15
なんだろう、……この石。
その時、飯塚の威勢のいい声が向こうの売店コーナーから聞こえた。
「おーい、高橋ぃ!俺とパピコ割り勘で買わねー??ここ八十円で売ってんだけど!」
「あ、うん。おっけ、買う買う。」
取りあえず石をもう一度ポケットに入れて、コインランドリーを後にした。廊下に出て右に曲がるとすぐに売店があって、そのアイスコーナーの前でみんなが騒いでいた。どうやらとてつもなく安く売っているらしい。
その後は、潔癖症小久保の気もすっかり済んだようで、比較的穏やかに事は進んだ。数っちの数学問題も昼過ぎには何とか半分まで終わり、あともうちょっと踏ん張ればゴールが見えるところまで行きついた。
ふぅ、と一問解き終わったところで壁にかかった時計を見ると、午後の一時だった。
「あーでもやっぱ、人数が居るっていいね。一人でやってたら何日かかったことやら。」
鈴木が大きく伸びをした。「確かに。つーか、マジ部活入っててよかったわ。こういう時に助かるんだな。」
「まぁそうだけど、」ほっしーが青いシャーペンをくるくると回しながら言った。「他の人が作った解答、丸写しちゃ駄目だよ。ちゃんと考えながら写すんだよ。」
「はいはーい。」新条さんが口をへの字に曲げた。「でもさぁ、解答写すったって、高橋くんの解答さ、文字汚すぎて読めなくて結局自分で考えなきゃならんのだが。もうちっと綺麗に書いてよね。」
「……む。」残念ながら、言い返す言葉が見つからない。
今、ここに揃って居るのは総勢十人。その十人を四つに分けてそれぞれ問題を解いている感じだ。ほっしーと俺と鈴木の短距離+マネージャー組は図形の証明問題、小久保と飯塚の中距離組は二次関数と不等式、岡谷と山本の長距離組は確率問題、乙海と宮本と新条さんの女子軍団は三角関数……と言ったようにガッチリ分業した。よって一人で頑張るよりも遥かに速く解き終わるはずである。……まぁ、本来は一人で頑張ってやらなきゃいけないものなんだろうけど。期限があるのだから間に合わすことが最優先事項だろう。
ほっしーが解き終わっていないプリントの枚数をペラペラとめくって数えた。
「……じゅうご、じゅろく、じゅうなな……っと。あと十七枚だよ!これなら今日中に終わりそうだね。」
「おっしゃ!頑張ろうぜ!」
飯塚が親指をグッジョブの形に立てて笑った。
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「おい……今日中に終わるんじゃなかったのか……」
小久保のゲッソリとした声が、すっかり静かになった部屋に小さく響いた。
時刻は四時。ちなみに夜の四時である。窓からはひっそりと差し込む弱弱しい三日月が覗いている。
「難しいよぅ。泣きそうだよぅ。」岡谷が額を机に突っ伏した。左手に持っていたシャーペンがからーん、と音を立てて床に落ちた。「もうこれギブアップでいいんじゃないかなぁ?だってもう四時……。」
「いや、ここまで来たらやるしかないだろ。ここで折れる奴は男じゃねぇ。」山本が熱のこもった声で言った。どうやら数学オタクの山本は、久々の難問に出会って喜びのあまり興奮しているらしい……これだから頭の良い奴は怖い。
「えーじゃあ女子はもう寝ていいんですか、って、乙海!本当に寝るなよおい!寝たら死ぬぞ!」宮本が半分意識が飛んで行っている乙海をユサユサ揺らしながら言った。
残る問題はあと4問。今にも吹っ切れてしまいそうな集中力を頑張ってかき集めながら、俺はルーズリーフと向き合っていた。どこかの難しい大学の二次試験の問題だったらしいその問題は、まるで意味が分からない。鈴木とほっしーも俺と同じ問題を解いているのだが、二人とも一向に答えに辿り着かないようだった。
「ギャアアアアアアアアアアアアァァァァーッッ!」静かな夜の空間を、飯塚の凄まじい悲鳴が引き裂いた。その半端ない濁声で半分寝ていた乙海が驚いたように飛び起きた。
「おいおい、飯塚、一体どうしたんだよ。うち、心臓止まるかと思ったよ。」
山本以外のみんなが飯塚に注目した。ちなみに山本は集中しすぎていてまるで飯塚なんか気にしていない。
「ずっと、ずっと、なんで正解になんないのかな、って思って見なおしてみたら、」飯塚が頭を抱えながらぐったりとした元気の無い声で呟いた。「あ、アルファと、エー、途中式でごっちゃに混ざって書き間違えてた……。」
カチ、カチ、カチ。時計の秒針が回る音が無慈悲に時を刻んでいく。
「え、マジで。それはー、えっとー、なんつーか。ご愁傷様です。大丈夫だよ、気が付いただけよかったじゃん。」
鈴木が飯塚の肩を優しくぽんぽんと叩きながら言った。
「鈴木……俺もう、泣いてもいいですか。」飯塚が弱弱しく笑った。
そんなにショックを受けるほどの間違いだったんだろうか。飯塚の解答を見ると、なるほど確かに途中で「α」と「a」を入れ違えてしまっていた。しかもかなり最初の方で。
「あちゃーやっちゃったね。でも、これさ、アルファベット発明した人が悪いよ。俺もいつか間違えそうだなーって思ってたもん。」
「わああああああんっ、たかはしぃーーーっ!お前やっぱいい奴だぁぁーーーーっ!!うわああぁぁぁぁあああああん!!」
飯塚が泣きながらガッシリと抱き付いてきた。けれど残念ながら眠くて返すリアクションを持ち合わせていない。
その時、ガンッ!と机を威勢よく叩く音が後ろから聞こえた。振り向くと、山本が頬を赤く上気させて、不敵に笑っていた。
「泣くな飯塚!」そう言いながら、山本が自分の答案用紙をパンッ、と広げて見せた。「解けたぞ!ついに!!完璧だっ、完璧に解けたぞ!!」
この時ほど、山本が輝いて見えた瞬間はない。すぐにみんなで山本を胴上げした。完全に深夜テンションである。
夜深まる午前四時。やっと、やっとの思いで数っちの鬼畜問題が解き終わった。
明くる日。
みんなで眠い目をこすりながらほっしーの家から学校へと出発した。ほっしーのお母さんの作ってくれた朝ごはんが、眠い舌にとてもおいしかったのを覚えている。
学校に着いて、下駄箱で上履きに履き替えて、東塔の三階にある数学科へと向かった。すると数学科の教室の前には、忽然と段ボール箱が一つ、二つ、三つ……八つ並べて置いてあって、それぞれにA~H組、と書いてあった。どうやら自分のクラスのアルファベットの書かれたダンボールの中に、宿題を入れろ、ということらしい。
そして、D組とE組のダンボールの間に、数っちがパイプ椅子にどっしりと腰掛けて座っていた。数っちの足元にはなぜか、ピンク色の水玉模様の描かれた、少し大きめな箱が置いてあった。
「おう、お前ら陸上部か。みんなで教え合いっこしたんか。楽しかったか?」
「あ、ハイ。」ほっしーが眠そうな声で答えた。「楽しかったかどうかは……まぁ微妙ですけど。」
「いや、とても楽しかったです。」山本がニコニコ笑いながら言った。「最後の証明問題、すっごくセンスが高かったです。俺、初めて見ましたあんな問題。解けた時は嬉しくって。」
つくづく山本が化け物かなんかにしか見えない。たぶん、こういう奴を真の“変人”と言うのだろう。
「はは、まぁよぅ頑張ったな。」数っちが珍しく優しく笑った。「ほれ、頑張った褒美だ。持ってけ。」
そう言うと、数っちは足元に置いてあったピンクの水玉模様の箱から、綺麗にラッピングされた小さな袋を十個取り出した。中に何か入っていて、よく見ると、小麦色で、魚の形をしていた。
「……?」
「たい焼きじゃ。俺の嫁はんが「生徒さんにあげてね。」って言って作ってくれたやつだ。おいしく食べないと成績下げるからなー。」
「わっ、可愛い!」新条さんが袋の中のたい焼きを、まじまじと見つめながら黄色い声を上げた。「やったー!ありがとうございます。」
それに続いて、俺たちもありがとうございます、と言った。
「おうよ、ほんとよく頑張ったな。偉い偉い。」
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「数っちって、案外いい奴だったんだね!」
帰り道。ほっしーがもらったたい焼きをパクパク食べながら言った。冬の、冷たい大気にほっしーの白い息がふわりと宙に浮いた。
今日の部活は、佐藤先輩が「一年生はみんな疲れてるでしょ、今日はさっさと帰って早く寝なさいねー。」と言ってナシになった。正直言ってありがたい。部活は好きだが、この衰弱状態であまり走りたくなかった。
「ね、ちょっと奥さんの自慢も入ってたけど。でもおいしかったな、たい焼き。」
「アハハ、俺も数っち好きになったわ。それに今思えばけっこういい思い出かもな。みんなでほっしーの家に泊まるなんて二度とできないだろうし。」
鈴木が紺色のネッグウォーマーの中に顔を少しうずめた。少しもごもごと、声がくぐもって聞こえる。
「そんなこと言わないでまた泊まってってよね!」ほっしーが校舎の裏の駐輪場へと続く道へと一歩踏み入れた。「じゃあ俺はここで。また明日!」
ほっしーの後姿が、駐輪場へと消えていった。ふと、頬に冷たい物を感じて上を見ると、冬雲に覆われた灰色の空から、白い雪がちらほらと、ゆっくり舞い始めていた。
「……雪だ。」
「ね、今夜は積もるかもな。」鈴木も俺と同じように空を仰ぎながら言った。眩しそうに、少し目を細める。「なんだか懐かしいな。茨城に居た頃は雪なんか寒くて嫌なだけだったのに。今じゃちょっと嬉しいかも。」
「へぇ、やっぱ茨城って雪降るんだ。千葉じゃぜんっぜん降らないよ。かろうじて降っても積もらないし。つまんない。」
そう笑うと、鈴木もへへへ、と笑い返した。
「でもここじゃ、すぐ溶けちゃうだろうな、雪。」
冬の夕も、様々な喧噪で溢れ返っている東京で降る雪。
初めて、地元以外の場所で目に見た雪。
それから、鈴木は下宿寮に、俺は駅へと帰った。

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