小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第四話 昨日の消しゴム編◇-1


何もない高原に、一本だけ独りで、立派な楡の木が生えていた。
楡の木が、下を見ると、沢山の小さな蟻が、行列をつくっていた。

楡の木は言った。
仲間が沢山居ていいね、独りぼっちじゃなくていいね、と。

すると蟻は可笑しそうに笑って答えるのだった。
僕らはみんな独りぼっちさ。それにこんなに仲間がいると、こんなに居るのに誰一人として分かり合えないことがはっきりと分かってしまう。余計に独りぼっちなことに気付かされて虚しいだけさ、と。

それでも楡の木は羨ましがった。
仲間が居ていいな、楽しそうでいいな。

だって僕は、小鳥さえ寄りついてくれない樹なのだから。




                  ◇



青鬼の黒い血を全て飲み終わると、もう既に夜が明け始めていた。
随分と断末魔の煩い鬼だった。もう昔、まだ僕も彼も人だった頃の面影が少しも残らない鬼に少し失望した。きっと僕もこんなふうなんだろうな、と。
水面に映る自分の姿を見ると、灰色だった髪が黒色に戻っていた。少しびっくりした。あの鬼の血に、なにか不思議な効能でもあったらしい。
でもまぁ、ギーゼラは黒髪が好きだからこれでもいいかと思った。


朝焼けに消えていく白銀の月を眺めて思った。
たぶん、心というものは、洞窟のようなものなんだろうなと。


暗く、どこまで続いているのか、はたまた果てがあるのか分からない洞窟。その洞窟をふと見上げると、天井に穴が開いている。
天井の穴からは眩しい陽の光が差し込んでいて、澄みきった青い空なんかも見えるのだ。
ちょうど、マンホールの中に落っこちたら、こんな風に見えるのだろう。


心の底を覗いては絶対にいけない、そう主に教えられて僕は育った。
人は生きている間は、上を向いて、洞窟の穴をずっと見続けていなければいけない、と。さもないと、暗い洞窟のなかで永遠の迷子になってしまうから。

洞窟の穴は、世界と通じる穴なのだ。
独りぼっちの心が、唯一、他と通じられる穴。

それは、例えば視覚だったり聴覚だったり嗅覚だったり。
目は心の窓、と言われるのもこういうことなのだろう。
僕らが世界だと思っているものは、僕らの感覚神経と脳が創り出し、僕らに見せている世界だ。だから、同じものを見ても、人それぞれによって見え方はまるで違う。

それで多分、命の火が消えるということは、洞窟の穴が塞がってしまうことなのだろう。
死んだらもちろん、肉体は死ぬから、何も見えないし、何も聞こえないし、何も感じられないだろう。それは、今まで見ていた世界を失うということ。すなわち、洞窟の穴が塞がってしまうということ。
それは、果ての無い、暗い、洞窟への旅を始めるということ。


千年前に恋した、あの人も、きっと今頃楽しい旅の最中なのだろう。
だって、少し浮世離れした彼女は、一人が本当に好きだったから。




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飛行機に乗って数時間。
青い空には大きな雲がいくつか出ている。ここは、ドイツ、ベルリン空港。

国籍が無いのでパスポートも無い。飛行機に乗るだけで一苦労だ。
まぁ、あの手この手でどうにかなってしまったが。
それに取得しようにも、生年年号の選択が明治、大正、昭和、平成の四つしか無いんだからふて腐れてしまう。どうせこんな爺さんで海外に行きたいのは僕だけだろう。

ベルリンからさらに南に移動すること数時間。目的地はレーゲンスブルグ。ギーゼラの住む街だ。


ギーゼラとは終戦後一回も会っていない。すなわち七十年近く会っていないことになる。本当に時間が過ぎるのは早い。
最後に見た彼女は二十歳前だったが……今は生きているのかどうかも分からない。でも彼女はれっきとした魔女だし、きっとまだ生きているだろう。
ギーゼラと知り合ったのは第二次世界大戦前。その頃、僕は満州に居た。なぜかって、大陸に行ってみたいとずっと前から思っていたから。
鬼である僕は、それまで海神のせいで海を渡ることができなかった。けれど、鉄でできた、油で動く船が沢山行き交うようになってからは、海神の力がぐんと弱まったようで、こんな僕のような者でも簡単に海を渡ることができるようになっていたのだった。

満州に渡ってから数か月が過ぎると、ひょんなことで軍部の高官と仲良くなってしまった。彼が言うには、今から独逸国に行くのでお前にも付いて来て欲しい、多分面白いものも見れるだろう、世界が広がるだろう、とのことだった。独逸国、現在のドイツである。暇人な僕はもちろん彼の誘いに乗った。それから死ぬほど頑張って一か月でどうにかドイツ語をマスターした。

まぁその後に色々とあったのだが、結果的にギーゼラとそこで知り合った。

二十歳前の彼女は、とても綺麗だった。黄金色の、少しカールした豪華な長い髪と、宝石のような深く青い瞳を持った少女だった。
そんな彼女は、不思議なことに、地味としかいいようの無い僕を何度も食事に誘って来たのだ。僕は食事はあまり好きではないのだが、何せ暇だったし、綺麗なギーゼラが誘うので毎回お誘いには乗った。後で聞いたのだが、当時女性が男性に、しかも東の端っこのちっぽけな島国の男を食事を誘うなんて奇跡に近いことだったらしい。

ある日僕は、なんで僕みたいな地味でお金もロクに持ってない日本人を何度も食事に誘ってくれるのかとギーゼラに聞いてみた。するとギーゼラはフォークを持っていた手を休めて、囁くような小さい声で問いに答えたのだった。

「なぜかって、あなたが人じゃないからよ。」

唖然とする僕を綺麗な色の瞳で見ながら、ギーゼラは朗らかに笑った。

「そんな……僕は人間だよ。」
「いいえ、私にはわかる。あなた人じゃないでしょ。いいのよ、隠さなくても。」得意げにギーゼラがニヤリと笑った。「安心して、私も普通の人間じゃないから。実はね、私、魔女なのよ。」


……あの時の驚きは、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。