小説カイコ

作者/ryuka ◆wtjNtxaTX2

◇第三話 ふりだし編◇-32


「人の世とは不思議なものよ。」

ふっと、その人が微笑む。
どこかで見覚えのある、静かな笑顔だった。月の光に、着物の裾がうっすらと透けていた。
「……蟲神様?」

するとその人はゆっくりと目を伏せると僅かに頷いた。
「ええ、いかにも。あなたが今年の神子ですね。由紀子には結婚おめでとう、と伝えておいて下さい。あの娘にはもう、わたくしの声は届きませんから。さて、」蟲神は俺に背を向けると、白く光る砂利の敷き詰められた中庭に音もなく降り立った。「あなたのことは何と呼びましょう、まさかカイでいいわけがありませんよね。」

「カイ?」
すると蟲神は小さな子どものような無邪気な笑みをこぼした。「懐かしや、村ではよくふざけて“カイコ”と呼ばれていましたね。糸を紡ぐ者としての化衣に、胡蝶の胡。可笑しいけれど、とても美しい名だとわたくしは思っておりましたよ。まぁ……思わず笑ってしまうような名ではありますが。」言い終わると、白い裾で口元を隠しながら蟲神はさらに可笑しそうに笑うのだった。

「はぁ。」何が何だかさっぱり分からない。本当にこの人が神様というものなのだろうか。
「まぁ名など何でもいいでしょう。任史、頼みがあります。」口元を覆っていた裾をどけると、蟲神は真面目な顔になった。緑の両眼で、まっすぐとこちらを見る。背後から差す、月明かりがとても眩しかった。
「あなたの中の記憶を、カイとして過ごした日々の記憶を、太一に与えてはくれませんか?」

「……?」
意味が分からない、という俺の考えを読み取ったのか、蟲神は真面目な表情をくずして、柔らかな顔になった。
「ごめんなさいね、唐突すぎて驚いたでしょう。けれどわたくしもあなたがこの世に生まれ、そして再びこの地を訪れるまでの気の遠くなるような長い月日をずっと待っていたのです。このような姿をして、神としての忌々しい日々を、ずっと。だからと言っては難ですが、こんな私の願いを、たった、たった一つですから、どうか聞き入れて欲しいのです。任史、あなたの中にはカイという過去の世界に生きた少女の記憶が残っている。それがどうしてか、はたまた説明の付かない運命の悪戯であるのかは、わたくしには見当もつかないのですが……」
深い緑色の目を細めると、蟲神は遥か上空に浮かぶ、満月を見上げた。

「任史、時間には終わりがあると思いますか?」
月を仰いだまま、蟲神がそう聞いた。

「さぁ……。考えたこともないです。」
「わたくしはずっと考えてきましたよ。そうですね、ふつう、生まれのあるものには終わりもあります。けれど生まれのないものには終わりはない。ちょうどあの月のように、」言いながら、蟲神はほっそりとした白い手で月を指差した。「美しいでしょう、あのような円には終わりも始まりもない。たぶん、時の流れもあのようなものではないかとわたくしは勝手に思っているのですよ。」

そして再び俺に向き直った、蟲神の表情はとても優しいものだった。
「人の世とは不思議なものでしてね、ごく稀に、任史のような逆向きの時の流れを心の内に持つ人間が生まれます。ああ、意味が分かりませんよね。……そうですね、さきほど、本殿の床に奇妙な落書きをしませんでしたか?」言いながら、蟲神はまた裾で口元を覆うと、くつくつと面白そうに笑った。裾の向こうから見える、緑色の瞳が面白そうにこちらを見ていた。

「あ、」そういやさっき、過去に飛ばされる時、本殿の床に柚木さんが壁部屋を掘ったままなんだった。「すいません。直しときます……」

「別にいいのですよ、それにあれは青い鬼が見せた他の世界での出来事ですから。この世界の本殿には傷一つ、ついておりません。」ふっと、蟲神がとぼけたような表情になる。「ああ、話がずれてしまいましたねまったく。それで、任史は過去の、弘化二年の世界へ行ったのでしょう?まだ太一が人間の子供であった世界に。……あの世界にとっての任史は未来人でした。そうでしょう?遥か平成の時代からやって来たのですから。と、いうことは、弘化二年の時点で既に、この世界に訪れるべき未来は決まっていたことになります。任史が生まれることが決まっている未来です。そうでなければ、未来が決まっていなければ、未来人である任史が過去に行くことなど不可能なのですから。」
話し終わると、蟲神は難しいですか?と首をかしげた。

「はい、少し…。」
たぶん蟲神の言いたいことは、大体分かった気がする。平成生まれの、太一たちにとっては未来人としての俺が、弘化二年にやって来た。それはひっくり返せば、弘化二年に生きた太一たちにとって、平成という時代がやって来る未来、俺という人間が生まれてくる未来が、既に訪れることが決まっていたということになる。

「しかし、任史の中には、思い出せないくらい大昔のことになりますが――――、カイがこの世に生を受けた記憶が残っている。もちろん、カイも太一と同じく弘化二年に生きた人間です。不思議でしょう?任史は生まれたときからカイの記憶を持っている、けれど任史の生まれる前の弘化二年の世界は、任史が生まれるという未来を既に持っている。さて、どちらが先なのでしょうかね?カイが生まれるのと、カイの記憶を持った任史が生まれるのと?」

蟲神が喋り終わるのと同時に、暖かい、湿気の含んだ風が中庭をそっと吹き抜けた。
「まぁ、そんなことはどうでもいいのです。」蟲神は頭に疑問符を浮かべる俺をちらりと見ると、そう無理やりに結論付けてしまった。

「よく分からないけど……」ごちゃごちゃになっている頭の中を一生懸命に整理して、言葉を紡ぐ。しかしまぁ、時木から始まって、土我さんといい目の前の蟲神様といい、どうして俺の出会う人たちはこうも話が難しいのだろう……まぁ別にいいけど。「えっと、きっと俺はカイって人の記憶を持ってるんですよね。確かに、心当たりはあるんです。ちょくちょく、知らない人たちが出てくる夢を見たことはあって。みんな昔の人が着るみたいな着物を着てて、後ろの風景はすっごく昔の農村って感じの。それが蟲神様の言うカイって人の記憶で、それがカイコ、っていうか太一にとってすごく大切なものなら、俺は喜んで差し出します。それでカイコが幸せになるなら。」

すると蟲神は俺の両手をそっと握り、少しだけ揺すった。
「ありがとう。任史、本当にありがとう……。やはりずっと、待っていた甲斐がありました。これでわたくしはやっと、太一とそれにハツを救うことができる。彼らが望んだ、救うことのできる神となることができる。」
「一つだけ、聞いていいですか?」なんでしょう、と蟲神は小さな声で囁いた。「どうして、そんなに救いたかったんですか。だって気の遠くなるほど待ったって、さっき……」

「それはですね、任史。」蟲神は握っていた手をゆっくりとほどいた。「わたくしにも人の子と同じように、心というものがあるのです。わたくしだけではない、どんなものにでも心はある。それで、心があって、感情のあるわたくしですから、やはり人には好かれていたいと思ってしまう。ここに居ていいのだと、存在していていいのだと、痛いほど確かな、わたくしがこの世に居て良いのだという証が欲しくなる。それが、神であるわたくしにとっては、人から必要とされることだったというだけなのです。
 もうお分かりでしょう。このような弱き心を持ったわたくしにとっては、人の願いを叶えること、そしてまた、願いを叶えてくれる神として、人から必要とされることが至上の喜びであり、同時に此処に存在する意味となるのです。そう、それだけのことなのです。」

「そう、だったんですか。」
「もう尋ねることは無いですか?」

無いです、と答えると、そうですか、とこだまのような返事が返ってきた。
「では任史、今晩はここでお別れです。またすぐに会うかもしれませんし、このまま一生会うことはないかもしれません。けれど、あなたの幸せをいつも祈っておりますよ。……最後に、一つ注意しておきましょう。少し前までここに居た、土我と名乗った灰色の髪の鬼とはあまり関わらない方がいい。あの年老いた若者は、任史には少し毒が強すぎる。それくらい、彼はあまりにも特殊すぎるのです。」

言い終わると、蟲神はふっと儚げな笑顔を見せた。
真っ黒な空の中に一つ、月の放つ眩しいくらいの白い光に、蟲神の姿が透けている。キラキラと少しだけ輝いて見えて、綺麗だった。

「明日のお祭りは、楽しくなると良いですね。」


最後にそう告げると、蟲神の姿は俺の目の前から消えていた。俺はと言うと、気が付けば俺は衣田家の玄関マットの上に座っていた。きっと蟲神様がここまで運んでくれたのだろうと思った。