【色々】世界でひとり、恋をしよう?【短編】
作者/ささめ ◆rOs2KSq2QU

さようなら、セピア。
一人きりで列車の中というのは案外寂しいもので、外の景色は森ばかりで代わり映えもせず、僕は退屈の中に身を投じていた。逃走するために公共機関を使うのはどうなんだろうかという疑問がふと脳裏を過ぎったけど、こうして列車は出発してしまったのだ。今さらどうしようもないし、追っ手がきたら意地でも逃げるしかないだろう。
がたんごとん、がたんごとん。
静かな車内に響くのは列車の揺れる音だけで、頬杖をついて外を眺める僕の思考回路に一定のリズムのように届いた。がたんごとん、がたんごとん。頭の中に届くそのリズムは、いつか君と共に任務から帰っているときにも聞いたことがある気がする。あの頃はまだ僕は何も知らずに純粋だったから、君が隣にいる、それだけで緊張してこんな風に列車の音を聞いている余裕なんてなかった。
がたんごとん、がたんごとん。
繰り返し響くその音に載せて、僕はあの幸せな時を振り返る。
隣の君は任務疲れでぐっすりと眠っていて、列車の揺れ程度じゃ目を覚まさなかった。長いまつげは下を向き、淡い桜色の唇はきゅっと結ばれていて。そこから時折洩れる僕の名前が、とてつもなく愛おしかった。
あの頃の君の髪の毛はまだ長かった。二つに束ねた黒髪はさらさらと良い香りを放っていて、隣にいる僕の胸の鼓動をうるさくさせていた。僕にだけ見せるあの無防備な寝顔が可愛くて可愛くてたまらなかった。きらきらと光り輝いているように見えたのは、恋をしていたからだろうか。
「…………けど、君が隣で眠ることは、もう、ないんでしょうね」
呟いた言葉はか細くて、発した自身ですら聞こえにくかった。
胸が苦しかった。頬にはひきつった笑みがこびり付いていて、泣くことは出来そうにもない。体中を占めているずきずきとした痛みが十四番目の侵食が進んでいるのを促している。僕という人格ががらがらと音を起てて崩れ落ちていくのがわかる。
彼女が大好きな僕は、必死の抵抗も空しく、消えてしまう。
「っはは……皮肉だな……」
窓一枚を隔てているので、今日の夜は冷え込んでいるのかはわからない。ガラスに映った自分の顔はひどいものだった。
逃走続きの生活で、僕の心はこんなにも歪んでしまったというのか。
――きっと、彼女はこれからもっと綺麗になる。
彼女に言い寄る男はもっと増えるだろう。幼い頃から彼女は凛とした美しさを持っていた。歳を重ねるごとに、彼女はもっともっと美しくなる。厳しい現実と直面しそれに対応していくことで、内面も美しく、強くなるだろう。
僕の知らないところで、きっと君は綺麗になる。
――でも、その変化を僕が見ることはない。
肩までの黒髪が、またあの頃のように長くなるまで。結局、僕は君の隣にいることは出来なかった。大好きな大好きな彼女の成長を、僕はもう隣で見ていられない。
あぁ、と声が洩れた。叶うことなら、彼女が大人になって、僕以外の誰かとの幸せを選べるようになってから消えたかった。彼女の美しさはすでに僕のものじゃないってことを知って、諦めたかった。
ねぇ、僕の大好きなリナリー。
これからの未来の君は、もう諦めるから。
だからせめて――――あの時の君だけは、まだ、僕の心にいさせてください。
■さようなら、セピア。
「……っ、アレン君っ……」
夜中に目を覚まして、私はまた泣いてしまった。寝ようとしても駄目だった。何度も私の脳内に彼の笑顔が過ぎるのだ。
私のことを可愛いと頬を染めて言ってくれた彼。君は強いですねと微笑んで頭を撫でてくれた彼。慌てた様子で怪我をした私を抱きしめてくれた彼。たくさんの思い出が蘇り、私の胸はいっぱいになる。それは涙へと変わり私の頬を濡らした。
彼は、教団から逃げる数日前にぽつりと言った。
――きっと君は綺麗になるんでしょうね。
――? ど、どうしたの急に。長い間長官に問い詰められてたから、疲れちゃったの? 部屋に戻る?
――疲れてはいませんよ。ただ、何となく、そう思っただけです。すみません。
たった一分間ぐらいの会話だった。でも今思えば、この会話は彼が私の前からいなくなることを示唆するものだったのかもしれない。彼はこの会話の数日後、いなくなってしまったのだから。
あれだけ私のことを愛していると伝えてくれたのに。肝心の私には何一つ言わずに、ひっそりと。彼の姿は私の手の内から失われてしまった。
「……嫌よ、アレン君……っ……私は、貴方がいなくちゃ嫌なのっ……」
唇を噛み締めても、嗚咽は絶えず零れ落ちてくる。
苦しい、苦しいの。貴方はもう私の隣に戻ってくるつもりなんてないってことが。私はもう貴方のあの笑顔を見ることが出来ないってことが、ものすごく辛いの。
ぼんやりと滲んだ視界の端に映ったのは、部屋に置いてある大きな姿見だった。
目元を真っ赤にした一人の少女の姿がそこに映ってある。
惨めな姿の私がそこにいる。彼が綺麗だと笑ったその姿は、変わらずにある。
ねぇ、私の大好きなアレン君。
貴方が綺麗だと笑ってくれない私なんて、必要ないわ。
こんな自分、化け物や老婆になってしまっても良い――――なんて思うのは、私の傲慢かしら?
だから俺は君のヒーローにはなれないんだよわかってくれ、いいやそれでも君は聞こうとしない。俺を孤高のヒーローにしたくて君はまた泣く。泣き叫んで、俺をそこに縛り付けて放さない
殺される、と思った。
彼女が伸ばした指がじとりと汗をまとった俺の首に絡みつき、薄っすらと浮き出た喉仏をとらえる。まだ呼吸の途中だったので俺の喉からは掠れた音が洩れてびくりと肩が震えた。いつもはひんやりと冷たい彼女の指先。今日はやけに熱いんだね。せせらってやりたい衝動に駆られそうになったけど、酸素の欠乏がその笑みをどこかへ持っていってしまった。
「たすけて、よ」
その言葉と共に零れ落ちたのは一切の熱を含まない冷たい冷たい涙の粒で、頬に水滴を受けた俺は「あぁそっか、彼女の指がこの涙の温度を奪っちゃったんだ」なんて妙に納得しちゃうほど気が狂ってしまっていたのだ。あの時、俺はキ××イだった。
世界には彼女と俺しかいなくて、だから彼女を助けられるのも俺しかいなくて。頭がおかしかったからこそ現実的に有り得ない理想郷を心の中に作り出していたのかもしれない。
「ひぃろー、なんでしょ。トウカは、わたしの、ひーろ、」
どうやら彼女も同じらしい。ヒーローなんて居もしない奴のことを目の前の俺に重ねてしまっている。ヒーローなんて幻想なんだぜ、和人。俺みたいな奴はお前のヒーローになれないんだよ。なぁ、俺たちはもう高校生だろ。夢から覚めろよ、和人。
――かずと、かずと。
呼ぶと嫌がって唇をぎゅっと噛み締め目を三角にしてローキックをかましてくる彼女の本名を俺は呼び続けていたというのに、一切の反応を彼女が見せることはなかった。ただ「助けてよ」と懇願するばかりで、俺が投げた言葉のボールはぽちゃんと彼女の涙だまりに落ちていく。
「たすけ、たすけてよ、トウカぁ……」
惨めったらしく泣き叫ぶ彼女を横目に、俺は唇を歪めて、長い彼女の髪の毛を掴むと勢い良く床に叩きつけて小さな鼻から鮮血が溢れ出すのを確認しさらにお腹を五、六回足の甲で打ち付けて、そこでようやく目が覚めたことに気付いてほっとする。
あぁ、良かった。
俺はまだ、ヒーローなんて奴になれない凡人のままだって。

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