コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ
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- マーメイドウィッチ
- 日時: 2016/06/21 11:41
- 名前: いろはうた (ID: FEOD1KUJ)
世界が止まった。
手が震える。
数拍のちに気付く。
私は大切な人に裏切られたのだと。
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- Re: マーメイドウィッチ ( No.360 )
- 日時: 2017/09/26 17:23
- 名前: いろはうた (ID: d2uBWjG.)
- 参照: https://pixiv.me/asaginoyumemishi
メノウ自身もよくわかっているだろうが、
彼女には人を従わせる圧倒的なカリスマ性がある。
「貴女も」
突然メノウがぐるんとこちらを振り返った。
その目は声の力によって、キラキラと赤く輝いている。
緑と赤のまぶしいコントラストはまるで宝石のようで
フレヤは一瞬その強い光に見とれた。
「なんですかそのひょろい歌は」
王家の誇る人魚の歌を真正面から貶したメノウに
一同は唖然とした。
フレヤも一瞬何を言われているのかわからなくて
ぽかんとしてしまった。
「その程度の歌では、私の声の足元にも及びません」
ふんっと鼻息荒く言う姿は、威風堂々としていて
これではどちらが王族なのかわからない。
いや、メノウも一応王族の血を引いているのだった。
「貴女の気持ちは、その程度なのですか」
嘲りを含んだ言葉に、わずかに頭に血がのぼる。
「……違う」
「ならば、何を迷っているのですか?
私に血を這いずり回る苦しみを与えるのではなかったのですか?
私ごときに力ですら負けるだなんて
悔しいとは思わないのですか?」
明らかに挑発だった。
メノウはフレヤをわざと怒らせようとしている。
歌により強い力を籠めるには
より強い感情が必要なのだとメノウも知っている。
フレヤは力なく唇を緩ませた。
なんて、情けない。
フレヤは目を閉じ、すぐに開いた。
その目には凍えるほど強い光が宿っている。
「騎士団よ。
女王として命じる」
空気がびりりと震えるほどの圧倒的な存在感。
騎士団の者たちは、気づけばその場で膝をついていた。
「我が国のために、いいえ、私のために、
血を流し、命を捧げなさい」
傲岸不遜な言葉。
ぞっとするほど甘美なまでの響きを帯びている命令は
騎士たちの血肉に毒の様にしみ込んだ。
まるで人魚の誘惑の歌の様に。
かつてのイルグ王を彷彿とさせる立ち振る舞いに
騎士たちはいっせいに頭を垂れた。
だがハイヴは気づいていた。
私のために、などと言っているが、
全ての責任は自分自身が負う、ということだ。
彼女は、恐れていた。
女王という見えぬ鎖に縛られることに。
だけど、今フレヤは自ら進んで鎖に囚われることを望んだ。
彼女は、真の意味で女王となったのだ。
歴戦の騎士であるハイヴでも
気おされるほどの覇気をフレヤは身にまとっている。
フレヤは唐突に歌いだした。
それは先ほどまでの美しい旋律ではなかった。
荒々しく、凍えそうなほどに熱い、
人魚の女王による戦いの歌だった。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.361 )
- 日時: 2017/09/28 02:23
- 名前: いろはうた (ID: osGavr9A)
- 参照: https://pixiv.me/asaginoyumemishi
ステファンが言っていた一月後の開戦まで数日となった。
フレヤと歌とメノウの声の力、この二つを掛け合わせることによって
騎士たちはアルハフ族と同じくらいの一時的な身体能力を手に入れた。
しかし、日々鍛錬を怠らないところが騎士らしい。
フレヤたち一行は、隣国オスロ国との国境まで来ていた。
先に偵察隊が状況の確認のために国境近くに行き、
安全を確認してからフレヤたちは出立した。
誰もが決意に満ちた凛々しい表情で道を進んでいる。
国境から少し離れたところに本陣を置き、
その夜はそこで過ごすことになった。
野営に慣れているアルハフ族の戦士たちが
てきぱきとテントを張っていく。
それを手伝う騎士たちの姿を見てフレヤは目を細めた。
少しずつ、彼らの間にあった溝が薄く浅くなっていくのを
この目で見ることができるのは、なんだか不思議な気分だ。
「あんたのテント張っておいたよ、フレヤ」
はっとして振り返るとルザが立っていた。
彼女とはチノのこともあって少し気まずい。
小さく礼を言って顔を上げる。
しかし、ルザはその場を動こうとしなかった。
まっすぐにこちらを見つめてくる緑の瞳は
どこかチノと似ている。
「あんたに、ちゃんと謝れなかった。
今まで、きついこと言って悪かったね。
あんたがのことが羨ましかった」
ルザを目をそらさずにそう言った。
フレヤはルザがまぶしく見えた。
そうしてアルハフ族の女性たちはこうも凛として
とても素直なのだろうか。
「私は、チョルノの番じゃない。
チョルノの番が見つからなかったから、
前族長の娘の私がチョルノの許嫁になったんだ」
「そう、なの」
「でも、チョルノのことは本当に好きだった。
ぽっと出のあんたなんかにとられたくなかった。
……でもあんたはチョルノの番なんだ」
「チノがそう言ったの?」
ルザを首を横に振った。
丁寧に編み上げた髪も一緒に揺れる。
「見てたらわかる。
チョルノがあんたを見ているときの顔。
私にはあんな顔見せてくれたことはない」
そう言ってルザは寂しそうに笑った。
ここでルザに謝罪をするのは違う。
それは彼女の誇りを傷つけるだけだ。
「私が、彼の傍にいる。
一人には、させない」
「うん。
……ありがとう」
ルザは笑った。
彼女の目の端に光るものがあるのは見ないふりをした。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.362 )
- 日時: 2017/09/28 17:08
- 名前: いろはうた (ID: osGavr9A)
- 参照: https://pixiv.me/asaginoyumemishi
フレヤは、用を足してくる、と嘘をついて
川辺に一人で来ていた。
そうでもしなければ、カインやチノがどこまでもついてくるからだ。
一人になりたかった。
静かなせせらぎの音が響く中、
フレヤが嘔吐する音が混じった。
荒い息を吐いて、フレヤは静かな川面を見つめた。
騎士たちの、アルハフ族の、国民の命を背負う重圧が
重くのしかかってきていて、息が詰まるかと思った。
道中、吐き気をずっとこらえていたのだ。
嘔吐したにもかかわらず、首を絞めつけるような
吐き気は消えない。
生理的ににじむ涙を荒くこぶしでぬぐうと、
吐しゃ物に土をかけて見えなくした。
立ち上がって浅瀬に近づき、冷たい川の水で顔を洗う。
ふとフレヤは川の向こう岸に
誰かが立っていることに気付いた。
ひゅっと自分ののどが空気を吸って鋭く鳴った。
ステファンだった。
黒い外套に身を包んでいる、ステファンの姿が
月明かりに照らされていた。
二人はしばらく何も話さずにお互いの姿を見つめていた。
ステファンの周りには人の気配はない。
どうやらフレヤと同じく一人のようだ。
まずい。
ステファンにフレヤの歌の力は効かない。
ましてや、ステファン自身の力は未知数。
それ以前に男性であるステファンに力でかなうわけがない。
ステファンしかいないのが不幸中の幸いだ。
「貴女は女王となったのですね」
警戒心をあらわにステファンを見つめていると
唐突に静かな声がかかった。
ステファンとの間に距離があるため、
彼がどんな表情をしているのかは見えない。
「王とは、孤独だとは思いませんか」
昔のような優しい声でも、
あの夜の時の様に毒を含んだ甘い声でもなかった。
感情の抜け落ちたような無機質な声音だった。
「民は王に完璧を求める。
己が保身のために」
「いいえ、違うわ。
私が彼らを守りたいから完璧でありたいの」
「惨めな姿を他にさらすまいとしているあなたの姿は
誰よりも気高く、そして、醜く愚かだ」
「かまわない。
私がすべて背負うから」
ステファンのから殺気は感じられない。
彼は何がしたいのだろう。
フレヤを攫いに来たのなら、とっくに行動に移しているはず。
夜風が二人の間を強く吹き抜ける。
フレヤは目を細めた。
「貴女は変わった。
変わったしまった」
「私は、変わっていないわ」
「私たちは似ている。
あなたの魂は私により近くなった」
ステファンの言っている意味が分からない。
彼の目的もわからない。
フレヤはステファンの隙を伺った。
しかし、自然体で立っているように見えて、やはり隙がない。
「やはり、私のものにはならない?」
「ええ、決して」
「今なら、殺さないで
奴隷にするだけで済ませてあげるというのに。
貴女の騎士団ごときでは
敗北することは貴女もよくご存じかと思っていたのだが」
「……」
わかっていた。
そんなことは誰よりもわかっていた。
だけど、これしか方法がなかった。
他に、なにも方法がなかった。
何もせずに散っていくよりも、
戦って、立ち向かって、砕け散るほうがいい。
だけど、それは騎士たちを、アルハフ族たちを
この手で殺すようなものだ。
その罪の重さに耐えかねて嘔吐したことを、
ステファンは見抜いている。
ばしゃりと水音がしてはっとした。
ステファンが少しずつこちらに近づいてくる。
恐怖心が一気に膨れ上がった。
「こ、ないで」
護身用のナイフは置いてきてしまった。
フレヤは後ずさって逃げようとしたが、
それよりもステファンがこちらにたどり着くのが早かった。
頬に手を当てられる。
ひやりとした冷たい手。
まるで首にナイフを突きつけられているような感覚だ。
「はやく貴女が絶望し、その魂を闇に堕とす姿が見たい」
睦言の様に甘くささやかれる冷たい言葉。
恐怖に目を見開いた自分の姿が、
ステファンの目に反射して映っているのが見えた。
太陽神の姿をした悪魔のような男。
すっと手が離れて髪をすいていくのを震えながら見つめた。
「貴女がその気高い魂を闇に堕とした姿は
地獄の女神のごとき美しさだろう。
その時はこの髪に、血のように赤い薔薇と、
闇よりも暗い黒の薔薇を飾りたい」
さらり、とかすかな音を立てて
髪が肩を滑り落ちていくのを感じた。
ゆっくりとステファンの手が離れていく。
「私は、どんな目に遭おうとも
あなたにだけは屈しない」
地を這うような低い声で言うと、
ステファンは虚を突かれたようにわずかに目を見開いた。
次の瞬間にはくすくすと笑いだした。
フレヤが大好きだった笑顔で。
「それでこそ貴女だ、フレヤ様。
とげのある薔薇ほど手折り甲斐があるというもの。
その気高い魂を黒く染めて、私だけのものにしたい」
ごくごく自然な仕草でフレヤの手を取ると、
ステファンはそこに氷のような口づけを落とした。
アイスブルーの目は凍えんばかりの熱が踊っていて
見るだけで動けなくなってしまう。
彼はふわりと立ち上がると、何事もなかったかのように
向こう岸に歩き出した。
一度も振り返らない背中は、
夜の闇に紛れてすぐに見えなくなってしまう。
その場には川岸にへたり込むフレヤだけが取り残された。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.363 )
- 日時: 2017/09/29 17:23
- 名前: いろはうた (ID: osGavr9A)
- 参照: https://pixiv.me/asaginoyumemishi
その夜、フレヤは目がさえわたりすぎて、全く眠れなかった。
ステファンの言葉が何度も頭の中を反芻している。
テントの天井を見つめ続ける。
遠くから火の粉の爆ぜる乾いた音が小さく聞こえた。
静かだった。
だからこそ、頭の中のステファンの言葉が
より大きく聞こえてしまう。
『貴女の騎士団ごときでは
敗北することは貴女もよくご存じかと思っていたのだが』
あの時、反論の言葉が咄嗟に出なかった。
そのことを、誰よりも理解しているのはフレヤだからだ。
フレヤの歌とメノウの声は万能ではない。
その効能は、魔法というよりも洗脳という言葉が近い。
二人の力は、騎士たちの身体能力を飛躍的に上げたのではない。
騎士たちに、思っているよりも自分の身体能力は高い、と
思い込ませた暗示のようなものだ。
騎士たちは一時的にアルハフ族と同じだけの身体能力を得られるが
それはあくまで一時的なものだ。
通常よりも体に負荷をかける運動を無理に行うので、
騎士たちには通常の倍近くの疲労が体にたまる。
最初の一日はステファンの軍をしのげるかもしれないが、
次の日、騎士団は動けないほどの疲労に襲われるだろう。
そうなったら、この国は終わりだ。
騎士とアルハフ族は皆殺しになるだろう。
かろうじて国民を北に避難させているのがせめてもの救いだ。
フレヤは、罪の重さに震えが止まらなかった。
騎士たちは、ダークエルフを実際に目にしていないから
その実力をよくわかっていない。
アルハフ族もそうだ。
そこでフレヤははっとした。
違う。
メノウ、チノ、カルト。
この三人はダークエルフたちを実際に見た。
かなわないとわかっているはずだ。
騎士たちが戦力としては不十分なのは
特に武人であるチノとカルトは気づいたはずだ。
それでも、フレヤに何も言わないということは、
勝てるという自信があるというのか。
フレヤは唇を強くかみしめた。
いや、違う。
恩人であるフレヤに義理を通すつもりなのだ。
文字通り、命をかけて。
(……いやだ)
誰も死なせたくない。
誰も奴隷にさせないたくない。
どちらもかなえるには、自分の力はあまりに足りなさ過ぎた。
悔しかった。
情けなかった。
もっと、もっと強い力があったら、
全てを守りきれたかもしれない。
目じりからスッと熱い雫が零れ落ちた。
こらえきれず、嗚咽が噛みしめた唇の隙間から洩れた。
また、悔しさに泣くことしかできないのか。
惨めさに嗚咽を漏らすしかないのか。
「フレヤ、入るぞ」
唐突にテントの外から声をかけられて、
フレヤは目を見開いた。
声を上げるよりも早く
チノがしなやかな動きですばやくテントの中に入ってきた。
夜遅くに女王のテントに勝手に入ったとなれば、
他の騎士たちにお咎めを受けるから、ひそかに入ってきたのだろう。
フレヤは泣き顔を見られないように
あわてて毛布を頭までかぶった。
チノがこちらに近づいてくる気配がする。
「フレヤ」
溶ける前の雪のような柔らかい声だった。
目頭がまたじわりと熱くなる。
フレヤはきつく毛布を握り締めた。
こんな顔を見せたはいけない。
女王は毅然としているべきだ。
いつでも凛としていて、前を向いて、進み続ける、
民の道しるべとなる者だ。
それが涙していれば、みんなが不安になる。
不安にさせたくない。
未来は明るく照らしていてあげたい。
「おまえ、馬鹿だろう」
笑われながら言われフレヤは目が点になった。
徐々に心を満たす感情。
唇が震える。
これは、これは怒りだった。
これだけ自分が悶々と考えているところを
突然現れて馬鹿とはどういうことなのか。
怒りで涙も引っ込んでしまった。
勢いよく毛布から顔を出すと
ふわりと抱き寄せられた。
「やはり馬鹿だ。
あれだけ言ったのに、また一人ですべてを背負い込み
涙をこぼしている」
まばたきをした拍子に、目の端に残った涙が零れ落ちた。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.364 )
- 日時: 2017/10/02 01:07
- 名前: いろはうた (ID: osGavr9A)
- 参照: https://pixiv.me/asaginoyumemishi
「おれの前では気を張らなくていいと言ったのを
綺麗に忘れてくれたらしいな」
わずかに声音にいらだちを混ぜながらも
彼は荒っぽくフレヤをかき抱いた。
人を抱き寄せるのに慣れていない手つきだった。
戸惑うような気配と一緒に、こちらを気遣う心を感じた。
オーブンから取り出したケーキの様に
突発的な怒りがしぼんでいくのを感じた。
フレヤが思い詰めているのを感じて
何かうまく声をかけたいのに何も言えない不器用さに
優しさがにじみ出ていた。
「私は……あなたたちの忠義心を利用して
あなたたちを死に追いやるような真似をする」
気づけば、震える声が唇から漏れ出ていた。
こんなことチノには言いたくないのに、
言ってはいけないのに、ぽろぽろと言葉が零れ落ちていく。
「私は、誰も死なせたくない。
でも、そうしないと、誰も守れない」
「落ち着け。
落ち着いて、ゆっくり話してくれ」
震えの止まらぬフレヤに、
チノがなだめるようにその小さな背中を何度もさする。
大きな手だった。
この手をもうすぐ失ってしまうのかと思うと
目の前が真っ暗になるような心地だった。
指の関節が白くなるほど、チノの袖を強く握り締める。
「……私たちの戦力では、負けてしまう」
喉の奥から絞り出すようにして言葉を紡いだ。
チノは何も言わない。
フレヤは、たどたどしく言葉を紡いだ。
「みんな、殺されてしまう。
負けると分かっている戦いに兵を送るのは
死に追いやるのと何も変わらない」
「それは違う」
温かい指が髪をすく。
その少しくすぐったいような感触が
切なくなるほど愛おしくて止まったはずの涙が
じわりと目の端に滲んだ。
「おまえが不安に思うのもわかる。
心配するなと言うほうが無理だろう。
失う痛みを知る者ならば、
誰も失いたくないと思うのは当然のことだ。
だが、その前に、おまえは一つ、忘れている」
大切なこと?
そんなことはない。
騎士たちの、アルハフ族の命を失ってしまうことよりも
重大な事実はない。
そう言おうとするよりも早くチノが言葉をつづけた。
「おれたちを、信じてほしい」
低い声は弦楽器の様に耳に豊かに響いた。
胸を突かれる思いだった。
彼らを失うことばかり考えて、
自分の心が傷つくことばかり考えていて
彼ら自身のことを信じようとしなかった。
命を懸けて国を、大切なものを守ろうとする彼らを
女王が信じなくて誰が信じるというのか。
ステファンは間違っている。
全然、女王になどなれていない。
その存在に近づけすらしていない。
「戦いはおそらく夜となる。
おれたちのような異形の者たちが
最も力を強くする時間帯だ。
お前も早く寝ろ」
こめかみに素早く口づけをおとすと、
チノは足早にテントを出ていこうとする。
おそらく他のものに不審に思われないようにするためだろうが
フレヤは思わず彼の服の袖をつかんでしまった。
驚いたようにチノが振り返る。
掴まれている袖を見た後、緑の瞳がフレヤの顔を見つめる。
「い、いかないで」
消え入るような声でそう言うと、
緑の目は真ん丸に見開かれた。
フレヤはめったに人の前で弱い姿をさらさない。
そうすることが苦手なのだ。
だから、チノも驚いているのだろう。
袖をつかむ手に、大きくて熱い手が触れた。
触れられているところから溶けてしまいそうだ。
フレヤはチノの顔を見上げた。
その目の奥に、とろりとした鋭い獣の色を見て
びくりと体が震える。
それを見て、チノははっとしたように、フレヤの手を離した。
その仕草がひどく寂しくて、フレヤは行き場のない手を
そっと握りしめた。
「フレヤ、その」
チノは珍しく歯切れの悪い言い方で、言葉を紡いでいる。
口元のあたりを手で覆って、フレヤを視界に入れないように
そっぽを向いている。
その仕草に胸が鈍く痛んだ。
「その、だな。
明日は満月だから、今は、あまり触れ」
「私は、チノと一緒にいたい。
離れたくないの」
ゴンッ
チノがテントの支柱に頭をぶつける音が響いた。
わずかにテントが揺れたが崩れるようなことはなかった。
「チノ?」
呼びかけるとチノがゆらりとこちらを見た。
その目に見たことのない光を見たと思った瞬間、
彼は一瞬でフレヤの前にいた。
肩を押され、突然のことに抵抗もできずに
とさっと自分の体が軽い音を立てて寝具に倒れた。
視界いっぱいにチノの顔が映る。
彼は怖いくらいに無表情なのに
目だけは宝石のようなキラキラした金色に輝いていた。
綺麗な獣の瞳だった。
ゆっくりとチノの顔が近づいてくる。
フレヤはゆっくりと瞬きをして彼を見つめ続けた。
突如、チノがうめき声をあげて
フレヤの首元に顔をうずめた。
口づけをされるのかと思ってどきどきしてしまったが
これはこれでどきどきしてしまう。
首筋にチノの熱い吐息がかかって、
ひどく落ち着かない。
「ち、チノ?
大丈夫?」
チノは聞いたことのない言語を
猛烈な勢いでぶつぶつと呟き続けている。
おそらくアルハフ族の言葉なのだろう。
時折、どうしてこういう時に限って死ぬほど可愛いことを、
などとフレヤを恨むような言葉もちらほらと聞こえた。
かと思ったら、首をがぶりと噛まれた。
いつものようなはむような噛み方ではなくて
犬歯が肌に食い込むような、苛立ちまぎれの
何かをこらえるような噛み方だった。
小さく悲鳴を上げると、半眼になったチノが顔を上げた。
何やら恨みのこもった湿度の高いまなざしを向けられる。
「な、なに?」
「…………なんでもない」
チノは素早く状態を起こすと、すぐさま足早に
テントを出て行ってしまった。
こちらを振り返るようなことは一切なかった。
結局傍にはいてくれなかったが、
触れられた部分が熱を帯びているようだった。
「……なにかを我慢していたのかしら?」
静かなテントの中で、フレヤの問いに答える者はいなかった。
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