ブラッドエッジ

作者/ 紅蓮の流星 ◆vcRbhehpKE



#1 Minotaur『牛頭鬼』1



 かん、かん、かん。非常階段を駆け上がる音。

 都会の夜空は相変わらず星が少ない。只でさえ風情が無いのに、静けさまでぶち壊して男は走る。

当然ながらエレベーターもある筈のビルの、わざわざ非常階段を駆け上がる。

男は確実に『誰か』から逃げている。

しかし、男にはそいつから逃げきる算段も、自信もあった。

 ―――今回の取引は中断せざるを得ないが、逃げきればどうとでもなる。

今回の『薬』の取り引き、受け取る側のこちらには何の落ち度も無かった。

何せ俺の役割は上の人間達が依頼した『薬』を受け取るだけ。

そんなことは何回もやってきたし、何回も成功させてきた。

情報が漏洩した原因は向こうにあるとしか思えない。

そっちの落ち度なんか知るか。勝手に捕まっておけ。

間違っても俺達の情報を吐いたりするんじゃねえぞ……。

 だが、それ以外は簡単だ。この―――電磁波を操る端末―――で

『警備人造人間(ガードロイド)』の回路を狂わせて、暴走させればいい。

巨大なビルには、大概多くの『警備人造人間』が控えている。それらが一気に暴走したとなれば、

幾ら『断罪者(エクスキューショナー)』とはいっても簡単には追ってこれやしない。

もしかしたら『断罪者』まで暴走しちまうかもなあ……?

 そして何より、暴走した『人造人間(アンドロイド)』は、

動力中枢及び思考中枢―――つまり、人間で言う心臓や脳―――を破壊しない限りは、止まらない。

強みである筈のそれを利用すれば、強力な壁になる。
さあ、思う存分暴れやがれ、デク人形共!―――

 男は、小さい板のような端末のボタンの内の一つを押した。


   


 業務用警備人造人間『一つ目(サイクロプス)』。

一つ目の化け物の名を冠するだけはある見た目と、その馬力。

都内の企業の警備にはよく見かけられる人造人間。

白い曲線に包まれた巨体、眼の代わりの一眼カメラ。

それらは見る者に頼もしさを与える筈であった、

が。

 それらは今暴走し、

ビルの中から飛び出し、かけずり回り、窓を割り、壁を砕き、床を壊し、鉄柵を曲げ、大挙して押し寄せる。

赤い一つ目を輝かせ、怒り狂ったようにサイレンを鳴らす。非常時のサインを示す色。

 そして『一つ目』の群れは今、非常階段を駆け上がる少年に襲いかからんとしていた。

 少年の髪の色もまた、緋色。男なのか女なのかわからない整った顔立ち。

服の色はモスグリーン。首元に赤いネクタイが見えるが、とてもスーツには見えない。

似たものを強いて上げるとすれば、陸上自衛隊の制服だろうか。

更にその上から防弾チョッキのようなものを着込んでいる。

 少年は華奢な体で、しかし表情一つ変えずに非常階段を駆け上がる。

少年を壊さんとばかりに、『一つ目』の大群が非常階段を潰さんばかりの勢いで襲いかかる。


   


 男はドアを端末でハッキングしてこじ開けた、最上階の一室に身をひそめていた。

この部屋であれば、『一つ目』達でさえも入ってこれない。社長室は明日の朝になるまでは完璧に安全だ。

このビルに警察が来たとしても『一つ目』共にてこずる筈。それに紛れて抜け出してしまえばいい。

 そう、『一つ目』。

今このビルの中では、『一つ目』共が大暴れしている筈である。

だというのに、さっきまでの下階からの騒音は消え失せて、すっかり夜のしじまを取り戻していた。

 男の脳内に、嫌な予感が走る。

でもあり得ない筈だ。このビルには少なく見積もっても、50体の『一つ目』が配備されている筈。

まさか。いや、でも、あり得ない。あり得ない筈だ……。


 次の瞬間。ぴしぃん、という音と共に、

扉が―――『一つ目』でさえ破ることのできない強固な扉―――が、右斜め45度に両断された。


 重い音を立てて切り倒された扉の向こうに佇んでいたのは、緋色の髪の少年。

陸上自衛隊のような軽装備に身を包んだ少年。

少年の左袖は、手首から肘のあたりにかけてが破けていた。が、その他は全くの無傷だった。

端整な顔立ちの少年は、男の方に向かって静かに一歩を踏み出す。

「く…来るんじゃねえっ!」

男は華奢な、しかし得体の知れない少年に拳銃を向ける。

確証も無い。だが、何故か男は、目の前に居るこの少年に得体の知れない恐怖を感じた。

「大人しく投降しろ」

淡々と言い放ち、少年は躊躇いもせず、男に歩みを進める。

「来るんじゃねえって言ってんだろうがぁ!」

恐怖にたまりかねた男は少年に向けて発砲する。

銃声。

弾丸は一直線に少年の額に飛んでいき、その頭を穿いた―――かのように見えた。

頭部に弾丸を喰らった衝撃で天井を向いた少年。しかし再び犯人を向くと、やはり全くの無傷だった。

「え…―――」

驚きのあまり声も出ない男を意にも介さず、少年は水平に左腕を持ち上げる。



 少年―――もとい、その『人造人間』の左腕が、手首から肘の中央の直線上を沿って引き裂かれる。

顕れたものは、長さは少年の指先から肩ぐらいまである―――深紅の刃だった。



 更に驚く暇も与えない。風を切り裂くほどの疾さで男の懐に飛び込み、拳銃を、端末を刃で切り裂く。

足をかけて男を転倒させる。男が受け身をとる暇も与えず男の上に馬乗りになって、

「ひィッ!?」

肘の先から伸びた切っ先を男の頭のすぐ横に突き立てる。

「や…やめろ、殺さないでくれ!」

「安心しろ。ボクは『人造人間(アンドロイド)』だから人を殺せないようにできている。

 それにもうじき警察が来る。武器も端末も破壊した。もうお前に打つ手は無い」

きん、と音がして刃が床を少し抉る。男は小さく悲鳴を上げ、人造人間は男に顔を近づける。



「ボクの役目は暴走してしまった『仲間』の介錯と、その原因の排除だ」