青い春の音
作者/ 歌

第2音 (6)
って、違う違う。
コーヒーに会いに来たんじゃなくて、
春日井先生と同じ大学生に
会いに来たんだよね。
自分の好きなものや好きなことが
目の前にあると、周りが見えなくなって
しまうのが私の悪い癖。
でも、直せるとは思わないから
この性格は仕方ない。
「着いたよ」
そう言って足を止めた春日井先生に
つられて、白を基調とした建物を見上げた。
『avoir bon coeur』
とココアブラウンで書かれた文字は、
確かフランス語で「心が優しい」って
いう意味だったと思う。
その意味通りの雰囲気を持ったカフェ。
中へと続く扉を開いた春日井先生の後ろを
好奇心にも似た想いで、ついていく。
そっと中に入れば、一番最初に目についた
古いオルガン。
あ、バッハがいたころのものだから
バロック時代かな。
すごく、綺麗。……弾きたい。
その周りには大量のCDたち。
とても古い時代のクラシックやジャズのもので
溢れていて、楽譜も今では珍しい、
手書きのものが飾られていた。
店内に流れているゆったりとした
音楽は、ショパンのバラード第1番。
私の大好きな音楽が詰まっている
このカフェを、すぐに気に入った。
「あ、いたいた」
私が店内のことに夢中になっていると、
目的の人物を見つけたのか、
窓際の一番奥の席に向かって手をあげた
春日井先生。
私も一度、音楽から離れて
春日井先生の後ろを歩いていくと。
その眼鏡の奥の鋭い瞳とばったり
視線が絡まり、明らかに嫌悪感を抱いた表情に。
あ、と思わず声を漏らした。
私の声を聞き逃さなかった春日井先生は、
え?と言って私のほうを振り返る。
「知ってるの?」
…いや、彼自身を知ってるわけではない。
漆黒とも言えるさらさらの黒髪に
頭がよさそうな眼鏡、堅い雰囲気。
そして、拳銃を突きつけたような
冷たい瞳。
この瞳を、私は知っている。
曖昧な笑顔を見せて、春日井先生よりも
早く彼に近付いた。
彼の座っている目の前に立って、
その冷たい瞳を上から覗き込む。
ますます顔を歪ませて
負けじと睨み返す彼は、とても、
寂しそう、だった。
無意識にその瞳へと手が伸びて、
青白い肌に触れると。
さっきまでの歪んだ表情はどこかへ消え、
体を硬直させて私を怪訝な表情で見つめる。
すっ、と目じりに親指を寄せて
その冷たい瞳の奥にあるものを
私は探していた。
「……」
店内に流れるショパンのバラードも、
マスターオリジナルのコーヒーの
穏やかな匂いも、すべて、シャットアウト。
「ちょ、神崎さん?」
そのシャットアウトされた空間に
音を飛び込ませたのは、春日井先生の
焦った様子で私を呼ぶ声。
その声に、またしても自分の世界へと
飛行していたことに気づき、
彼の頬から手を引いて一歩後ずさった。
「あは、すいません。びっくりさせちゃって」
「いや……知り合いだったの?」
「いえ。ちょっとこの冷たい瞳に
見覚えがあっただけです」
私の返答に疑問を抱いたように、
分かりやすく眉を寄せる。
でも、そんなのは知ったこっちゃない。
「この人、名前なんて言うんですか?」
何か言いたそうな春日井先生を遮って、
ずっと聞きたかったことを問えば、
「橘築茂(タチバナツクモ)」
本人から名乗ってくれた。
その様子を見た春日井先生の
さっきまで寄せてあった眉は、
見開かれた目と一緒に、
大きく持ち上げられた。
「そう。歳は確か春日井先生の
一つ下だから18だよね?
ってことは大学1年生か」
普通の大学ならば、まだ入学した
ばかりの1年生がこの時期に部活や
サークルに入ることはまずない。
今頃、多くの新入生が胸を躍らせながら
どこに所属しようか悩んでいるはずだ。
しかし、S大学には音楽推薦で
入学が冬には決まる人がいる。
そういった人たちは高校を卒業した
春休みから、すでに大学の練習に
参加しなければいけない。
きっと、この人はすでにかなり
高い音楽の才能を持ち合わせている。
いや、それはあのバイオリンを
聴いた時点で分かってはいたけれど。
まさかこんなところで再会できるとは
夢にも思っていなかった。

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