月下のクリムゾン るりぃ ◆wh4261y8c6 /作

第弐妖『鬼』1
――ときはなたれよ。
声がする。
耳元で?
いや、耳の中から。
琴が鳴らす、低く美しい音色のような声で。
今、何が起こっているのか…彼には解らなかった。
朝は、いつも通りだった。
村に山の向こうから温かい陽が降り注ぎ。
それに呼ばれるようにして皆家から出てくる。
友についていった彼を、隣に住む男が寝ぼけ眼で「今日も早ぇな。」と言った。
彼が胸を張ると、彼の大きな節くれだった手が背中を叩く。
朝日の逆光で、見上げても顔はよく見えなかったが、白い歯を見せて笑っていた。
長い冬は明けた。
春になると民は途端に忙しくなる。
田に出る男衆を、女たちは元気な声で送った。
彼も、働きに出る友に向かって手を振る。
友は、手を振り返してくれた。
好いた人は彼に向かって微笑んだ。
いつも通りだった。
いつも通りだった。
――ときはなたれよ。
また、声がする。
もう亡き母親は、彼が悪戯をすると必ず言った。
《悪いことをすると、鬼がくるよ。》
これは、罰か、とふと思いつく。
しかし彼が、どんな悪事を働いたというのか。
それとも誰かが、悪事を働き鬼を呼んだのか。
罰は、誰を戒めようとしているのか。
彼には、なにも解らなかった。
しかし間違いなく、鬼はいるのだ。
そいつは、男衆が帰ってきた夕暮れ時にやってきて。
あっと言う間に皆を食らった。
彼の目の前に転がる友も、その鬼が食らったのだ。
じっと見ていても、もう笑わない。
大好きだった大きな掌からは、指がみんなもぎ取られていた。
好いた人も、そばに倒れている。
もう温もりもない。
着物の前がはだけ、歪んだ肌色から赤茶色のものが飛び出ている。
村の中央の広場には、そんな村人が大勢転がっていた。
彼は、悲しみをぐっと堪えてそれぞれの村人を見て回った。
生きている人がいるかもしれない。
そう思った。
まだ生きていれば、助けなくちゃならない。
町に働きに出た父親が、《男なら勇気を持て》と言っていたのを思い出したのだ。
彼は、鬼を警戒しながら歩き、倒れている人を見かけるとそっと体を揺らした。
何人目かの死亡を確認した時、不意に後ろから砂を踏みしめる音がした。
鬼かと思って慌てて振り返ると、そこには隣に住む男が居た。
男は息を弾ませ、血の付いた腕に薪割りに使う斧を持っている。
生きている人が居たのが嬉しくて、彼は男に駆け寄った。
途端、耳のすぐ側でぐしゃ、という音がする。
何事かと自分の肩を見ると、そこには斧が刺さっていた。
「鬼め…ッ! よくも村の皆を…!!」
男は、憎々しげにそう吐き捨てる。
何を言っているのか、彼には解らなかった。
ただ肩が熱くて。
痛くて。
助けて、と叫ぼうと口を開いた。
鬼は居るのだ。
確かに居るのだ。
だけどそれは…自分じゃない…!!
――ときはなたれよ。禍魂。
耳の中で、声がした。
それを聞く彼の口には、既に男の喉笛が屠られていて。
強く噛んで、引きちぎる。
助けてと、言いたいだけなのに。
血にまみれた口からは、咆哮しか生まれなかった。

小説大会受賞作品
スポンサード リンク