月下のクリムゾン  るりぃ ◆wh4261y8c6 /作



第弐妖『鬼』5



「…此処も、ですか。」

村人皆殺しの事件を調査するために、山に入った紅は、本日何度目かの台詞を呟いた。
目の前には、何者かに破壊された地蔵。
石でつくったそれは身体にヒビをいくつも入れて、首はもがれて横に転がっていた。
紅は首を拾い上げて泥を払うと、汚れた身体に乗せる。

「わざとやられたのね。酷いことを……」

すぐに近隣の村人に言って補修してもらわなければ。
この山に点在する地蔵は、餓鬼の供養としてたてているものばかりだ。
それがほぼ全部何者かによって破壊されていた。
もしかすると、村人皆殺しの原因はこれかもしれない。
鬼には、色々な種類がある。
ヒトの吐いたものしか喰えないもの。
ヒトの血だけを喰うもの。
毒を喰らい、生き死にを繰り返すもの。
風を喰うもの。
屍を喰うもの。

―――ヒトを殺し、喰らうもの。

それらは皆飢えに苦しみ、常に満たされたいという衝動に駆られている。
また、時にはヒトに取り憑いて激しい飢えを与える。
それを鎮め、供養するには地蔵に食物を供え、経を唱えて施すしかない。
しかし、その地蔵がことごとく破壊されたこの状況では、鬼どもが飢えてヒトを襲ったとしても不思議はない。
また…。
心の中で呟いて、紅は地蔵を見ながら唇を噛んだ。
一つならまだしも、これだけ多くの地蔵が故意に破壊されているとなれば、もう偶然では済まされない。
悪戯か、それとも例の<第三者>の仕業か。
人間か、神に近い上位の禍魂でなければ供養に使用している<生きた地蔵>を破壊するのは難しい。
鬼どもが反旗を翻したわけではない。
悪戯でなければ、何者かが鬼の供養を打ち切り、彼らをまた苦しみに追いやったのだ。

―――ヒトを喰らわせるために。

「考えすぎかしら…。」

誰にともなくこぼして、慈愛の笑みを浮かべる地蔵に微笑み返す。
夕焼けの迫る空を見上げて、日が落ちる前には山を下りようと立ち上がった紅は、踏み出そうとして動きを止めた。
腰の妖刀が、震えている。
鞘を持つ親指で鍔を押し上げ、ゆっくり柄に手を掛けた。
背後の茂みに現れた黒い影は、明らかに紅の存在に気付いているようだった。
草の隙間から刺すような視線を紅の背中に注いでいる。
影は、殺気とは違うが、何か焦りのような気配を持っていて、次第に荒い息を漏らす。
気配が草を踏み、動いたのを機に紅は抜刀しながら振り返り、影に妖刀を向けた。
しかし、影は茂みからこちらに飛びかかるでもなく、体を屈めて地面に転がっただけで。
男の姿をした彼は、そのまま苦しそうに地面でもがいていた。

「…どうしたのです。」

「……喉が…乾おって…」

絞り出すように言った男は、何かを抑えるように必死に小さくなっていた。
震える肩には脂汗すら滲んでいる。
頭に立派な角があるところを見ると、鬼の類らしい。

「水が欲しいのならば、この先に川があります。ただしヒトを脅かす気ならばここで斬りますよ。」

「…あかんや…さいぜん行ったねんけど…。掬っても、掬っても、口にぶちこむ前に…炎になって……」

「あなた…鬼ね。」

ゆっくり顔を上げた鬼は、陽気そうな赤ら顔を苦痛に歪めていた。
紅と妖刀を見て、泣きそうな顔をすると再び額を地面に擦りつける。

「その割には痩せていないわね…。あなた、何故私を襲わないの? 血も肉も食べられないのかしら。」

鬼は、何度も力強く首を横に振って、しばらくしてから掠れた声で答えた。

「………食べたくあらへん…」

それを聞いた紅は、妖刀は納めぬまま、地蔵の前に自分の水筒を置き、静かに経を唱えた。
唱え終えると水筒を取り上げ、うずくまる鬼の前に置く。

「それであれば、飲めるでしょう。」

鬼は顔を上げ、水筒と紅を交互に見てから震える腕で水筒をさらい、栓を開けるのももどかしく中の水を美味そうに飲んだ。
水を飲み干し、息をついて口を拭うと、空の水筒をおずおずと紅の前に置く。

「…おーきに…。姉ちゃん…坊さんなんか?」

「そういうわけではないわ。悪さをする妖を屠るのが仕事よ。」

その台詞に鬼は妖刀を見て、思わず少し後ずさった。

「ワイも…殺すん?」

「悪さをしたの?」

「……ヒトを、食べたんや。ぎょうさん。やけど…そんなんしたくあらへんのや! やから…ワイを殺せや! 殺せや!!」

紅を見上げる瞳には、涙が滲んでいた。
地面についた手は、土を握りしめ、懇願する言葉に嘘は見えなかった。
紅は胸元から饅頭を取り出すと、地蔵に供えて経を唱えてから鬼に差し出す。

「……姉ちゃん…。」

「饅頭は、嫌いかしら?」

鬼は小さくかぶりを振って、紅の手から饅頭を奪い貪るように喰った。
紅はその様子に微笑むと膝をおって鬼と同じ目線になる。

「私は紅。あなたには、聞きたいことがあるわ。屠るのはそれからでも遅くないでしょう。」

「…紅…。」

「あなた、名はあるの?」

饅頭を貪るのをやめて、鬼は紅を見上げると、初めて笑った。

「ワイは鬼丸や! よろしゅうたのむで!」