月下のクリムゾン  るりぃ ◆wh4261y8c6 /作



第漆妖『羅門深紅隊』8



「……そろそろだ。」

数日後。
刀乃の言葉通り、一行は既に奥州に入っていた。
この山を抜けてしばらく行けば、城下に出る。
木漏れ日の射す山道を馬で歩きながら、蛭子は辺りを見回して穏やかに笑った。

「いい日和ね。最近は初夏だというのに真夏のような天気だったけど……やはり此方はだいぶ違うわ。」

「これでも、例年よりだいぶ暑いのです。……最近の季節は、どうも様子がおかしいようですな。」

刀乃の言葉を聞きながら、蛭子は物珍しげにきょろきょろしている。
紅は、その後ろ姿をしばらく眺めてからふと天を仰いだ
何かが、季節の理を狂わせている。
双哉の問題も恐らくは、その一角を担うものだろう。
理の川の底に在る黒い闇が、蠢き、流れを変えてしまおうとしているのか……。

……また、<奴>の仕業か……

天を仰ぐのをやめて、紅は自分の手元に視線を落とす。
<奴>というのは、八咫烏や鬼丸といった妖怪たちを惑わした聖武者……北条 早雲の事である。
早雲は紅と旧知の、そして犬猿の仲で、目的ははっきりしないが物の怪や人間の奥底に眠る闇を呼び起こし、狂わせる。
そもそも彼はこの国を名目上治めている<黄龍王>直属の陰陽師のような役割であり、人に害を為すことはないはずだが……早雲は例外のようだ。
彼なら、季節の理くらい容易く揺るがすだろう。
だが、暗躍しているのは早雲だけではないはず。
いつか多度山の神域を侵し、武者猫を苦しめた人間……それも無関係とは思えないのだ。
何かが起こっている。
理の流れを乱す、何かが。
そして紅には、蠢く闇を断ち切る覚悟が必要とされていた。
例え、それが何であろうとも、自分がどんな状況にあろうとも。

「ねぇ、紅。アンタもいい日和だと思うでしょ?」

「……そうですね。」

「よい日和には甘味が必要不可欠よね!」

「蛭子……すぐに甘味に繋げるのはどうかと思いますよ。好物なのは知っていますが。」

「好物じゃないわ! 大好物よッ!」

少し呆れた紅に、蛭子は拳を振り上げて主張した。
まったく、この娘は……。
戦いを離れた途端緊張感を失うのだから。
それを呆れるのと同時に心を和ませている紅は、ふと微笑み返した。

「……和んでるところ、すいません。」

陽鳴の声がして、風を感じたかと思うと金属が弾かれる音が山に響いた。
湿気を含んだ地面にべちゃべちゃと泥団子が落下し、蛭子の馬の前にふわりと陽鳴が降り立つ。

「へぇ……手厚い歓迎ね。宮寺殿。」

「これは……失礼。どうかお許しを。……何してる! 客人に対して無礼だろ!」

刀乃が怒鳴りつけると、すぐにそれは現れた。
枝をしならせ、そこに跪くのは、年の頃十くらいの少年。
全身を覆う雨ガッパをたなびかせ、脚に黒い紋章がついた長靴を履いている少年は、悪戯っぽい表情で下界を見下ろしている。

「目くじらたてる程の事でもないでしょ? 刀乃お兄ちゃん。この程度で怪我する客人じゃないもん、絶対に。だって、矛の名手、草薙 蛭子だよ?」

「田坊<デンボウ>ッ!また減らず口を!」

田坊と呼ばれた少年は、唇を尖らせた。

「減らないのは刀乃お兄ちゃんの小言でしょ。毎回、聞かないの解ってて言うんだもん。」

「そう思うなら少しは言うことを聞いたらどうだ! そうすれば俺だって言いたくねぇ小言も減るんだからな!」

「あはは! 無理だよ。お兄ちゃんは小言が趣味なんだから、減りっこないよ。犬神様だってそー言ってたし。」

「く……! 双哉様! お覚悟召されよ!」

刀乃は、自らの拳をパンッと叩いて遠き主を睨んだ。
今頃、その主は背筋に冷たいものでも感じているに違いない。
刀乃の怒りが双哉に向いたところで、田坊はにこりと笑うと下界の様子を見た。

「ようこそ奥州へ! すごいね。草薙蛭子に、天使の柊陽鳴。そこのお姉ちゃんもただ者じゃないでしょ?」

「ガキらしく随分威勢がいいわね。アンタ……その長靴の黒の紋章。双哉の直属部隊……黒犬<クロイヌ>の忍でしょう。」

「うん! 黒犬の田坊ってのは僕のことだよ。……流石だなぁ蛭子お姉ちゃん。伏せてる名前なのに。」

「まぁ、私は天才だから。なーんでも知ってるのよ。」

「ふぅん。僕の……敵う相手じゃないのかな?」

次の瞬間、枝がしなった。
田坊の姿は風のようにかき消え、瞬きの内に蛭子の目前に現れた。
振り下ろされた拳を矛で食い止め蛭子はそれを去なす。

「おい! やめないか田坊!」

「うるさいよッ! 天下一の腕を持つお姉ちゃんが目の前にいるんだもん! 腕試ししたいよ!」

滑るように着地して、田坊はすぐに蛭子に向け泥の塊を放つ。
田坊がそれを去なしている間に飛び上がり、頭上から蹴りを放った。
しかし蛭子は見事それを受け止め、にやりと笑う。

「よく喋る奴というのは二通りあるわ。肝の小さい口だけの奴か……それを装うずる賢い奴か……。アンタは、どっちかしら。」

「僕もお姉ちゃんも後者でしょ。違うかな?」

「……ふふ。 陽鳴、紅。ちょっと下がって待っててくれる? 相手する気になってきたわ。」

受け止めていた脚を弾いて、蛭子はバク転して田坊との距離をとった。
陽鳴を促して下がった紅は、珍しいものでも見るよう蛭子と田坊の攻防を見ていた。
蛭子がこうして誰かと戦っている姿をじっくり見る機会に滅多に巡り会わないせいもあるだろうが、何より蛭子があの手合いを受け入れ、相手をしてやる事がまず紅には想像しない出来事だった。
こういう無駄な手合わせは、しない女だと思っていたが……。

「珍しい?」

「えっ……。」

慌てて隣を見ると、陽鳴が優しげに微笑みながら此方を見下ろしていた。
顔に出ていたのだと悟って、紅は気まずそうに顔を背ける。

「別に……私は蛭子の事は深く知りませぬから。珍しいも何も……。」

「どうやら、あの田坊君は、蛭子さんと波長が合うみたいだよ。蛭子さんは、気に入らない相手とは仕事でない限り関わらないから。」

「そうですか……。」

「気に入った相手だと、仕事の合間に菓子を届けたり、様子を見に行ったり、屋敷を掃除してやったりしているみたいだよ! あははは!」

「…………。」

楽しそうに大口を開けて笑う陽鳴をちらりと見て、紅はふいと顔を背けた。
遠回しだが、今のは間違いなく紅の事である。
別に、どうって事のない話のはずだ。
自分が蛭子に気に入られているという話など……。
だが紅は、なんだか気恥ずかしくて、それきり黙って蛭子の手合わせを見ていた。