月下のクリムゾン  るりぃ ◆wh4261y8c6 /作



第肆妖『天使』5



「屡狐! 蛭子!」

対峙した二人には、もう紅の制止は届かないようだった。
どちらかが少しでも動いたら、それが引き金となりぶつかり合うだろう二人に、紅はそれ以上声を掛けられずそれを眺めるしか出来なかった。
陽鳴も同じなのか緊迫した表情で目の前の光景を見守っていた。

引き絞られた緊張の糸が、ふつりと切れる。

瞬間、空中に飛び上がった二つの影がぶつかり合い、金属音とともに火花を散らした。
屡狐の長く伸ばした頑丈な爪と、蛭子の手に握られた矛が、暗闇に軌跡を描く度互いの身を重ね、離れる。
屡狐の腕を信頼し、召還した紅は、それと互角に渡り合う蛭子の腕に目を見張っていた。
いや、互角どころか……屡狐が押されているような場面すら見受ける。

蛭子がどういう人間で、何が出来るのか。今まで考えたことがありませんでしたね……

蛭子はいつも禍魂を調査し、それを紅に伝えてくれていただけだった。
紅はそこから勝手にそういう調査員のような役割の人間なのだと思いこんでいたのだ。
<戦闘>においての彼女をあまり考える機会がなかった。
思い返してみれば人間離れした……もともと人ではないが、能力をもっていたり、式なしで空を飛んだりと蛭子の実力を測る機会も無くはなかったのだが、まさかこれほどまでとは紅も思いもしなかったのだ。

信じられない現実を突きつけられ、紅は無言のままにそれを見つめることしか出来なかった。

激しい撃ち合いが一旦膠着し、鍔迫り合いになる。
金属音を響かせ互いに一足で退いてから、間髪入れずに再び間合いに飛び込んでいった。
蛭子が勢い良く振るった矛を避け屡狐が右手の爪を突き出す。
防御を崩され、がら空きになった胸にその刃が突き刺さろうとしたとき、紅は声を上げた。

「やめなさいッ!!」

「……ッ!」

紅の制止で一瞬生まれた隙を、蛭子は逃さなかった。
長い脚で鳩尾を蹴り飛ばし、地面に叩きつけられる屡狐の体に覆い被さるようにして矛を振り下ろす。
屡狐の、引き絞った声が闇に響いたとき、矛の銀の刃は半分ほど肉体に自らを埋めていた。

「屡狐ッ!」

「化け狐……聞こえるかしら。お前の主の声が。」

蛭子は、屡狐を地面に繋ぎ止めたまま顔をのぞき込んだ。
痛みに喘ぎながらもまだ挑発的に笑う屡狐に返すように、唇を歪め、ゆっくり微笑む。

「実力の差は、見れば解るはずよ。互角……いや、上回っているかもしれない相手なのに、お前の主は止めを躊躇したの。躊躇すれば、こうなる事は必至だったのも解らずに、ね。ただ傷つけることを恐怖し、本当に選ばなくてはならないものを捨てたの。」

「……言い過ぎじゃろ……それは……」

「いい? お前の主はこの程度よ。甘ったれた選択しかできないような未熟者なの。それでも……お前は主の選択を護るというの?」

蛭子の言葉に、屡狐は喉を鳴らして笑った。
そして腕をゆっくり持ち上げ、中指を立ててみせる。

「……これって<挑発>って意味なんじゃろう?」

「ふふ……消し飛ばなければ、解らないのね。」

蛭子の手が光る。
言葉通り屡狐を吹き飛ばさんとして翳したそれが、降り下ろされる前に。
紅は陽鳴を押し退け駆けだしていた。