月下のクリムゾン るりぃ ◆wh4261y8c6 /作

第伍妖『妖刀―紅葉―』11
武者猫は、一件落着を見届けて多度山へ帰っていった。
真似妖怪騒動の数日後、監禁の傷もすっかり癒えて、相変わらず紅は屋敷の縁側で紅葉の手入れをしていた。
季節はすでに冬で。
見上げた曇天は、今にも雪を降らせそうだったが、紅は冬の冷気が嫌いではなかった。
火鉢から溢れる温もりに身を寄せて、冬を眺めていると頭上から微かに軋む音がした。
見上げると、八咫烏が逆さまにひょっこり顔を出す。
「元気そうですね。」
「御陰様で。」
「あ、別に恩着せに来たわけじゃないですよ。お届け物です。」
ふわりと屋根から縁側に降り、火鉢の向こうに胡座をかいて八咫烏はから紙包みを取り出した。
紅が不思議そうに見ていると、それを軽く開いてから差し出す。
中には美味しそうな饅頭が入っていた。
「神界に報告がてら持ってった帰りに寄ったから…ついでの、ついでですかね。」
「そうですか……。悪いですね。」
紅葉を鞘に納め、隣に置いてから饅頭を一つ手に取る。
一口かじると、餡の上品な甘さが口の中に広がった。
八咫烏はそれを見届けて、饅頭の包みを廊下に置き、自分も一つかじる。
「……聞きましたよ。紅葉の話。」
「……そうですか。」
「そんなもの、護る必要はあるんですか?」
八咫烏の言葉に、饅頭をかじる紅の手が止まる。
言葉を待つが、何も返ってこないので八咫烏はそのまま続けた。
「生き返るかも解らない母親の魂を護るために、あなたが犠牲になる必要はあるんですか。」
「…………。」
「人は、死ぬんですよ。紅さん。」
「……解っています。」
やっと発した言葉に、表情を窺う。
冬の庭を見つめる顔は、怒っているようには見えなかった。
「理屈ではなく。母の魂は……私が生涯断ち切れぬ情であり、錠なの。」
「それは……?」
八咫烏の問いに、紅は細い指を揃えて催促の手を差し出す。
八咫烏がそこに新しい饅頭を置くと、紅はそれを一口かじってから話を続けた。
「母を刀に宿したのも、それを護っていたのも、父だった。父は、母を深く愛していたのでしょうね。だが昔の私も、今のあなたと同じように、父の行為は人間の域を逸脱していると思っていた。」
「お父さんは、死んだんでしょう? それで紅さんが受け継いだって。」
「……五年前でした。私が父を殺したのは。」
「え……?」
紅は、饅頭をかじる手も止めて、ただぼんやりと庭の一点を見つめていた。
急かすことも出来ず、八咫烏が待っていると、紅はようやく重い口を開く。
「父は、紅葉に乗っ取られてしまったのです。微かに残る自我を失えば、紅葉は人も怨も構わず屠る。父は、それを止めるために私に自らを殺せと命じました。」
「…………。」
「その時の私に、他に何が選べたのでしょう? 殺めなければ、父も母も闇に奪われる。父を殺し、紅葉の主となり、母の守人となる以外、どんな生き方が選べたと思う。」
言葉を失った八咫烏を紅はちらりと見ると微かに笑った。
「その時誓ったんです。紅葉を持つ以上は、命の在る限り護り抜こうと。」
あの頃の紅には、いや、もしかしたら今の紅にも、紅葉は重すぎる刀かもしれなかった。
母の命と父の願いが、鎖のように腕に絡みついて、紅葉をいつまでも留めようとしていた。
だが、紅はあの選択を後悔したことなど一度もない。
紅葉を手にするのが、自らの揺るぎ無き運命であったと信じていたから。
「……立派な覚悟を、持っているんですね。」
優しく呟いた八咫烏の声に、紅は少し目を丸くした。
「でもさ、一人で護ろうとしないほうがいいですよ。意固地になっていたら、護れるものも護れないです。」
「…………。」
「僕達が居ますよ。だから、助けて欲しい時はいつでも言ってください。」
「……どういう心境の変化ですか? 巻き込まれたくはないのでしょう?」
「気が変わったんですよ。」
八咫烏は、頭の後ろに手を添えて廊下に寝転がった。
寒さに震えている天は、薄墨色にどこまでも広がっている。
「ですが……私は……。」
紅は紅葉を見ながら言い淀んだ。
深く関わる命を作ってはならない身の上の自分に、八咫烏の言葉を受け入れる資格はない。
「僕を誰だと思っているんですか? 神に仕える天才使役鳥ですよ? あなたや紅葉程度には傷一つ付けられないと思うんですけど?」
「あなたって人は……。」
「心配しないでください!」
ひょいと起きあがって、八咫烏は紅の方に振り向くと珍しく笑顔になった。
「大丈夫ですよ。」
「……八咫烏……。」
「あ。雪。」
とうとう降り出した空を見上げながら、紅はどこか温かい気持ちになっていた。
「……積もりますかねぇ。」
「……積もるでしょうね。きっと。」
「……そうですね。」
このまま平和な時が続いてくれと思う。
冬の午後だった。
第伍妖『妖刀―紅葉―』完

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