月下のクリムゾン るりぃ ◆wh4261y8c6 /作

第弐妖『鬼』8
鬼丸が、咆哮をあげたのはそのすぐ後だった。
天に向かって吼えた彼の震える身体は、既にヒトとは遠いものへと変貌を遂げている。
まるで慟哭の如しそれが合図であったかのように、喉から血管のようなものが浮き上がり、縦横無尽に体を這った。
それは皮膚をくれないに変化させながら、爪や棘を成長させていく。
咆哮を終え、地面に崩れ落ちた鬼丸が再び頭をもたげた時には、その表情も理性を完全に失っているようだった。
「鬼…ッ!」
「屡狐、その鬼より……今は自分の心配をしいなければ。」
紅は頭を振って混乱している心を見ないようにし、冷静に周囲を見回しながら言った。
深き闇に、ただ欲望を露わにした息づかいが次第に増えていく。
「…餓鬼が集まってきましたぞ…紅様。」
「供養なんて言ってたら、こっちがお陀仏かもしれませんね。」
あっと言う間に紅たちを取り囲んだ鬼は三十体ばかりで、皆だらしなくよだれを垂らし、こちらの隙を狙っている。
目の前の鬼丸も、低く唸りながら今にも飛びかからんとする勢いだった。
「さあ、救うんだろう? 紅。私に見せてもらえるかな。<屠る者>が、いかに命を救うのかを…。」
「……北条早雲…ッ。」
「…やめなさい。」
悔しそうに唇を噛んだ屡狐の横で、紅が静かな声で呟いた。
その手には既に妖刀が握られていて、瞳は暗く冷たい光を放っている。
「貴様に何が解るの。鬼丸の抱える苦しみの欠片でも、理解してるのかしら?」
「お前には…解るのかな。鬼丸の苦しみが。」
微笑みを湛えながら早雲が問うと、紅はふっと笑って妖刀を構えなおした。
「生憎、解らないですね。貴様の言うとおり、私は今の鬼丸と同じ…<屠る者>。」
「紅様…。」
紅が一歩踏み出ると、側にいた鬼が集団で飛びかかってきた。
それを一気に切り裂き、次いで襲いかかる鬼たちも妖刀で穿つ。
それを見た屡狐も、鬼に飛びかかりしなやかな足技で首の骨をへし折った。
「鬼丸…お前を討つことは、本当に救いとなるの?」
妖刀を抜き、鬼丸に向けて構えながら紅は問った。
しかし鬼丸は言葉を持たないのか、低く唸るだけで返そうとはしない。
代わりに、後ろで戦況を眺める早雲が口を開いた。
「何を迷う。ヒトにとって、物の怪は討つべき存在。命の重みなど無いに等しいのだろう?。」
「…私は、そうは思わない。確かに討たねばならぬ命もある。だが…命の重みにヒトも怨もありません。」
「ほう…。」
「少なくとも…北条早雲。貴様が弄んでいい命など…例え王直属の聖武者であったとしても、そのような命は存在しない…ッ!」
鬼丸の瞳を見つめ返しながら、紅は言葉を紡いだ。
叶うなら、どうかこの言葉が届くように。
心の底で祈りながら。
「…この時代を生きるには、あまりに酷だね。お前の性格は。ましてや抱えた運命で、差し伸べるのは救いの手ではなく刃ときている。はは…見ていて飽きないよ。」
「……。」
「さあ、お喋りはこのくらいにしようか。どの道結果は変わらないんだ。…鬼丸、頑張るんだよ。」
早雲はそう言うと、くくっと笑って光と共に消えた。
それを合図に、残された鬼丸が紅に襲いかかる。
鋭い爪をくれないでいなして、後ろに下がると、同じく後退した屡狐の背に当たった。
「あいつ…王直属の聖武者だかなんだか知らぬが! 許せぬぞ!」
「今はあいつがどうのと言っている場合ではありません。…来ますよ!」
飛びかかってきた鬼たちをすり抜けるように二人は散ると、再び各々の刃で鬼を鎮めた。
しかし、斬っても斬ってもどこからともなく集まってくる鬼たちはキリが無く、このままではこちらが消耗するばかりだ。
「…やはり鬼丸を斬るしかないのか…」
鬼丸の容赦ない攻撃をかわし、受け流しながら紅はまだ迷っていた。
その迷いが仇となったのか、振り下ろす一撃を受け止め損ね肩に一直線に落ちてくる。
食らう、と構えたが痛みはなく、代わりに鬼丸が悲痛な叫びを上げた。
「…ッ!?」
「悪い癖じゃ、紅様。相手の命を心配する前に、まず自分の命を護らなければ。」
怯んで下がった鬼丸の手には、深々と金属の破片が刺さっていた。
振り向く間もなく隣に現れた屡狐が、そのまま容赦なく蹴りを叩き込み、鬼丸は身体を仰け反らせて吹き飛ぶ。
「…屡狐…。」
「あの鬼には悪いんじゃが…村を潰したのは事実なのじゃろう?」
「村人を殺すのを先導したと言っていました。鬼供養の地蔵は、北条早雲が壊したらしいのですが…。」
「だったら、あの鬼を討つのが妾達の<仕事>だ。」
紅と自分に言い聞かせるようにゆっくり放つ屡狐の言葉は、決して責めるものではなく。
顔を見ると、先ほどまで鬼に同情していたあどけない少女の顔ではなく、覚悟を決めた大人のそれのようだった。
「…出来なければ、妾が代わりまする。」
「…いえ、平気よ。」
起きあがる鬼丸に向けて、紅は再び妖刀を構えた。
その瞳には、先ほどとは明らかに違う強い光が映っていて、強い決意が滲み出ている。
「私は、妖を屠る者、陰陽師。紅だ。鬼丸……許せ。」
鬼丸がこちらに向けて走るのと、紅が土を蹴るのはほぼ同時であった。
雄叫びを上げ、ただ肉を屠る為だけに牙を剥く鬼丸に、通り過ぎ様妖刀を振るう。
走り抜けて立ち止まり、髪がふわりと頬の横に落ちるのと同時に、着物の肩の部分が裂けた。
眉を顰め、紅がそれを押さえて振り返ると、鬼丸はゆっくり地面に崩れる。
「…邪なる禍魂・鬼丸童子…紅が屠らせて貰った。」
鬼丸が倒れると、群がっていた鬼たちは急に恐れを生し、散り散りに逃げていった。
残された鬼丸も、紅い皮膚から人間の姿へと戻っていく。
紅が歩み寄った時には、血だまりにうつ伏せに身を沈める男がそこに在った。
「…紅…。居るんか…?」
「ええ、ここにいますよ。」
紅が脇に跪くと、鬼丸は目をうっすら開けて微笑んだ。
「…水と、饅頭……美味しかったで…。」
微笑み返した紅に、嬉しそうな笑みを見せて。
鬼丸が目を閉じたと同時に、その体が得体の知れない光に包まれる。
「…ッ!?」
「酷いことをするんだな。紅。」
「北条早雲!」
降って来た声に顔を上げると、いつの間にか空中に現れた早雲が、脚を組みその上に頬杖をつきながらこちらを見下ろし微笑んでいた。
その隙に、鬼丸の体はあっという間に黒い光に呑まれ、姿を消す。
「鬼丸は預かっていくよ。割と気に入ってるんだ。また…会うこともあるだろう。」
「まだ苦しめるつもりなの…!」
「ふ…お前が<救う者>なら、きっといつか鬼丸も救われるよ。」
笑い声を残して、早雲は光を弾けさせ一瞬にして姿を消した。
地面に残るのは、鬼丸の流した紅い命だけであった。

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