月下のクリムゾン るりぃ ◆wh4261y8c6 /作

第弐妖『鬼』4
暗い洞窟に足音が響いて、男は顔を上げた。
近付いてくるそれを恐れるように、慌てて岩陰に隠れ、様子を窺う。
しかし入り口に繋がる道からは誰も現れず、足音も止まってしまった。
いつまで経っても、聞こえるのは洞窟の天井から落ちる滴が岩を穿つ音ばかり。
恐る恐る男が岩陰から顔を出すと、急に後ろから後頭部を掴まれた。
「……ッ!!」
「安心したまえ。とって食ったりはしない。」
男は岩を掴む腕に力を込め、背後の人物を振り払うように岩を飛び越えた。
逃れて、振り返ると、そこには1人の男が立っていた。
ニヒルに微笑み、その武者鎧を着込んだ男は男をじっと見つめる。
「まだ、人間のつもりでいるようだね。」
「ワイ…鬼とちゃう! ヒトなんて食べたくあらへん! いワレ…ワレは一体どなたはんや! なんでワイがこないな目ぇに遭おんや!」
「何故恐れる。お前は選ばれたのだ。<特別>なのだ。」
「おん、<特別>やなぁ…! ヒトをとって食うなんて普通とちゃう!!」
「気が強いな。気に入ったぞ。」
武者鎧を来た男が一歩近付くと、男は一歩後ずさる。
それを見て、仕方なさそうにため息をつくと武者鎧を着た男はさっき男が隠れた岩に寄りかかって男を観察した。
年の頃は三十路ほどであろうか、彼の顔は陽気そうな赤ら顔をしている。
彼が着ている紺色の浴衣は、所々汚れや返り血がついていた。
そして三度笠をかぶり隠している天然パーマがかかった頭には彼がもう人間ではないことを誇示する立派な二本角がたっていた。
「なあ、お前。何故ヒトを食うのは<特別>なんだ。」
「そ、そんなん言わなくたって解るやろ!」
「解らないな。ヒトだって、生きるために動物を食うじゃないか。それがお前の場合はヒトだった…それだけの話だ。」
「化けもんの屁理屈やろ!!」
負けずに声を張る男に、武者鎧を着た男はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「友を食らった味は覚えているか? お前に切り裂かれ、どんな顔をしたか覚えているか?」
「…ッ! ワ、ワイ、そんなんしてへん!!」
「私は見ていたよ。空腹を満たすのに必死なお前を。斧を持った男の喉笛も食いちぎっていたじゃないか。肩の怪我は大丈夫か?」
「……ッ!!」
男は、泣きそうな顔をしてその場にへたり込んだ。
いつの間にか完治した肩の傷に手を当てて、涙をこぼす。
信じたくない。
認めたくもない。
だが確かに、自分の意志とは関係なくヒトの味を覚えた身体が此処に在る。
ヒトの体を噛む度に生き血が喉になだれ込み、水分の多い果実でも食べているような気分だった。
どんなに否定したくても、男の身体にとってヒトは、間違いなく<御馳走>だったのだ。
「気に病むことはないよ。お前は選ばれた。《特別》なんだ。」
「…ヒトを食うこってが特別でぇあらへんやったら…一体何が<特別>なんやねん…。」
俯いていた顔を男が上げると、武者鎧を着た男はすぐそこまで来ていて、こちらを見下ろしていた。
「お前は、鬼だ。だが、醜く飢えるだけが脳の鬼とは違う。<特別>な鬼だ。」
「……。」
「ヒトを食わないと生きられないが、お前には<力>がある。欲しかったろう? 強くなりたいと、そう祈ったじゃないか。」
見上げた先にいる男は、優しく笑っていた。
囁く声は、いつか耳の中で鳴っていたものと同じで。
男はゆっくり瞼を閉じる。
「怖がらなくて良い。ほら、もう朱い夕日が沈むぞ。よく鬼どもを従えて、自らを磨け。」
「…ほな、村を襲うん…?」
「生きるためだ。」
武者鎧を着た男はゆっくりとまるで洗脳するように語り掛ける。
「お前、生前の名を覚えているか?」
「……覚えてへん…。必要あらへんやろ、今のワイには…。」
「…では、私が今日からお前を鬼丸 童子<おにまる どうじ>と呼ぼう。鬼だから、鬼丸…元気な童(わらべ)のようだから童子だ。…怪我をするなよ。」
武者鎧を着た男はそう言って頷き、童子から離れると入り口に向けて歩きだした。
岩の向こうに姿が消えそうな辺りで、童子が声を張り上げる。
「なぁ!」
「…どうした?」
武者鎧を着た男が振り返ると、童子は立ち上がって涙をぐいと拭う。
「どうして…ワイやったんや!」
その質問に、男はふと笑って身体を前に戻した。
「お前が、私を信じ、私を崇め、私に祈ったからだ。」
「…は…?」
「覚えていないかも知れないな。生前の記憶が曖昧なようだから。お前が死んだのは、運悪く遭遇した山賊に殺されたからだ。死の間際、お前は祈った。<力>が欲しいと。だから手を差し伸べた…それだけのことだ。」
「…助けてくれたっちゅう、事なんか?」
恐る恐る尋ねた童子の声に、男はもう一度振り返って微笑む。
「お前が鬼となってまで生きる命を欲していたのなら……救済だろうな。」

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