月下のクリムゾン るりぃ ◆wh4261y8c6 /作

第参妖『手ノ目』6
闇夜に月がぽかりと半分ほど口を開き、あたりがしんと静まり返る、禍魂の世界……夜がやってきた。
手の目を倒すべく再び訪れた草むらは、逢魔ヶ時の頃よりもさらに不気味さを増し、さわさわと風に揺れる草音すら物の怪の囁きのように聞こえる。
あたりをぐるりと見回して、紅は腰に携えた妖刀に手をやった。
「……妖刀が鳴いていますね。ここにいますよ。」
微かに共鳴する妖刀に、紅は目をやってから辺りを伺うようにして細い道を歩き始めた。
お春は、あの夜もこうしてこの道を歩いた。
お遣いは済んでいたから、店に帰る途中だったろう。
どれほどに恐ろしく。
どれほどに悲しかったか。
それを思うと、紅は己が心に巣食う闇が頭を擡げるのを禁じ得なかった。
「手の目ってどのような妖じゃったのか?」
「こういう、寂しい草むらに棲み付く事が多いですね。いたずらに殺された座頭が化けると聞きますが……」
紅について歩いていた屡狐が、足を止める。
足音でそれに気付いて振り返ると、彼女は月明かりの煌めく水面を見ていた。
紅がそんな屡狐をみてつぶやく。
「目が見えぬから、誰が自分の命を奪ったのかわからぬ。地を這いずり回り、ただ恨みを晴らしたい一心で下手人を探し回る内に、掌に目が開いた。…それが、手の目。」
「哀れな話だろう。」と皮肉に笑い、紅は言葉を結んだ。
しかし、いくら哀れでも無関係な人間の命を奪う権利などない。
それに、紅が生きるためには腰で震える妖刀に血を吸わせなければならなかった。
己の命を護るためとはいえ、その事実を思い起こす度に自分を恐ろしいと嘲らずにはいられない。
哀れと思っても、差し伸べるのは刃以外にないのだから。
「物の怪も哀れ、人間も哀れ。こんな時代じゃ、それも仕方ないじゃろう。」
「冷たい物言いですね。」
紅がくすくすと笑いながら言うと、屡狐はその言葉を冗談ととって同じく笑い返した。
と、刹那、遠くで弦を弾く音がする。
べおん、と響くそれは、間違いなく琵琶の音。
気付けば、さわやかだった夏風も生温く纏わりつくようなものへと変わっていた。
「琵琶……」
「屡狐。唄よ……」
耳を澄ますと、四方八方から押し寄せるように恨みがましい唄が聞こえる。
話に聞いたとおりその大きさは定まらず、遠かったり近かったりした。
「ははぁ、そういうことじゃの。」
音が定まらぬからくりに、屡狐は口の端をつり上げて笑った。
近かったり遠かったりするのは、声の主が一人ではないからだ。
彼らは標的を中心にまばらに広がり、途切れ途切れに唄を口ずさんでいる。
しかし、声も唄う場所もまったく同じであるから、そのように聞こえたのだろう。
ましてや、何の訓練も受けていない娘である。
怯えていたのも手伝って、そう聞こえたに違いない。
「お春は……こいつらに目玉を奪われたのか。」
「恐らく。ただ、<普通>ならあのような殺め方はしなかったと思うのですが。」
「…<普通>なら?」
紅は、刀に手をやりながら一つも影のない、唄と琵琶のみが響く草むらを見据えて頷いた。
「手の目は人間を骨も残さず喰らい尽くす。喰われた人間は、死体がないのだから<行方知れず>となる。だから、手の目の所業は露見しにくいのです。」
「……それでは、うちの狐は……」
「……喰われましたね。」
途端、唄がびたりと止んで風だけがそこに残った。
辺りにいる気配も、動こうとはしない。
息をつくのも憚られる緊張の糸を、引きちぎったのは手の目だった。
急に屡狐の背後から躍り出た手の目は、掴み掛かる前に彼の蹴りで見事に首の骨をへし折られる。
道に倒れ、変な方向に首を曲げつつも手の目はふらりと立ち上がった。
土気色の泥にまみれた身体に纏う、ボロ布に近い装束に見覚えがある。
「……お主……」
憎しみに歪み、目の部分が薄い皮膚と蒼い血管に覆い隠されたような風貌に変わり果ててはいたが、その顔はまさにお春につけていた狐であった。
「紅様……どういう事じゃ。こいつは、妾の……」
「骨まで喰らわれた者は、手の目となって現世を徘徊します。そうやって奴らは仲間を増やすのです。」
「冗談じゃろ……じゃあ、こ奴ら皆、元被害者って事なのか。」
屡狐が、元は狐だった手の目から目を離した瞬間、彼は地の底から響くような恨みのこもった奇声を上げて、再び飛びかかってきた。
開いた掌には、確かにぎょろりと目玉が生えていて、血走ったそれはしっかり屡狐を捉えている。
一足で素早く後退し、屡狐は手の目の突撃を避けた。
しかし彼は、地面を砕いた次の瞬間鋭い切り返しで再び迫り来る。
それに呼応するように、他の手の目も這いずり回りながらこちらに一斉に向かってきた。
「紅様ッ! 一応聞くけど、こ奴らはもう……」
「助かりません。哀れむ暇があるなら一人でも常世に送ってください!」
「じゃな……」
大袈裟にため息をついて、腰の大型手裏剣を手に取ると、屡狐は飛びかかってくる元狐に対して低い姿勢をとった。
「悪いの……死んでもらうぞ。」

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