小説カイコ ryuka ◆wtjNtxaTX2 /作

第一章 ふりだし編(8)
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弘化二年 夏
深き深き奥山 出羽の里
嗚呼、瓜木の茂りしかの谷よ
時知らぬ高き山々その嶺に、
朝に夕に白き霧をば降りさしむ
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……蟲神神社でのお祭りがあった夕暮れ。
僕は初めてカイに出会った。
弘化二年、夏
今は遠い夏の日、たぶんあれは一目惚れだったと思う。
初めての恋愛が一目惚れだなんて、恥ずかしいことこの上無いけれど、しょうがないと思う。だって好きになってしまったのだから。
弥助が言うには、僕は単純者らしい。まぁ、それ自体は格別悪いことでもないし、カイの方が僕よりもっともっと単純なので別にいいと思う。
「どげんした、太一。勝手に顔が笑ってんぞー。」弥助がやれやれ、と小馬鹿にしながら言ってきた。
「え、そうかな?」
カイと出会ってから毎日が、楽しかった。草を刈るだけの日々も、今までとは違った色合いを帯びていた。
カイは、どうした訳か木の実が特に好きだった。
それで僕はカイの喜ぶ顔が見たくて、いつも神蟲村に行く途中の道で、綺麗な色や面白い形をした木の実をたくさん集めて持って行ってやるのだった。
雨が降った日は空を恨んだ。
陽が沈むと太陽を悔しく思った。
陽が沈む前には、絶対に村に帰らなくてはいけない。
なぜなら、神蟲村と瓜谷村の間に流れる川には、夜になると人食い鬼が出るからだ。
だから、日が沈み始めると、いつも僕は不機嫌になった。
「あーあ、太陽が沈まなきゃいいのに。ずっとお空に出ていればいいのになぁ。」まるで小さいガキみたい駄々をこねると、カイがそうだね、と相槌を打った。
「でも、ずっとお天道様が空に出てたら、」カイが夕焼けで真っ赤に染まった、遠くの山を眺めながら言った。「お空はずっと青いよね。」
「? うん、きっと青いと思う。」
「私は、青いお空よりも赤いお空の方が好きだな。……ううん、違う。青いお空が嫌いなの。」
ちょっとびっくりした。空と言ったらやはり青空だろう。「どうして? どうして青いお空が嫌いなのさ。昼の方が人も、鳥も、川も、みんながみんな生き生きしているよ。」
「だって、」カイが、赤く染まった山から目を離して、僕の方をゆっくりと振り返った。キラキラと輝く綺麗な橙色の夕日が、静かにカイの黒髪を映した。「お空が赤くならないと、誰も私に会いに来てくれないから。お空が青いうちは、私はいっつも一人ぼっちだもの。」
「…そっか。」
カイは、きっと今までずっと一人ぼっちだったのだ。体がとても弱いから、小さい頃から家の外へ出してもらえなかったのだと、この間カイが話していた。
僕が昼の青い空の下で、弥助や妹と川や田んぼに居るあいだ、カイは暗い機織り部屋で一人、黙々と機を織っているのだ。
そんなカイの毎日を想像すると、なんだか可哀想な気がしてきた。
そんな考えにふける僕を横目に、カイはふふふっと笑った。「だから、私は赤いお空が好き。太一が会いに来てくれる赤いお空が好き。」
返す言葉が無くて、僕は黙ってしまった。少し照れ臭い気持ちと、カイのことを可哀想に思う気持ちとが、どうしても言葉にできなかった。会話が途切れると、烏の鳴く声が遠くからはっきりと聞こえた。
「あ、鈴。」突然、カイが僕の背カゴを指さした。「ここに付けててくれたんだ!」
「うん、だってお守りだって言ってたろ。」この前カイから貰った金色の鈴は、糸を通して背カゴに結び付けておいたのだ。残りの二つは弥助と妹にあげて、やっぱり二人もカゴに結んでいた。「友達と、妹も同じところにつけてるよ。二人ともカイにありがとう、って言ってた。」
するとカイは目を丸くした。
「私に? ありがとうって?」
「ああ、そうだよ。だってカイから貰った鈴なんだから、当たり前だろ。」
「わあっ、嬉しいな。どうしよう、ありがとうって言われちゃった!」言いながら、カイは嬉しそうに駆け出した。長い髪を揺らしながら、僕の周りに円を描きながら、跳ねまわっている。
正直、呆れる僕をお構いなしに、カイはずっと笑っている。
「カイはそんなんで嬉しいの? カイの変な奴。」
「む、太一の方が変な奴だもん。」カイが走り回っていた足を止めて、頬をぷくーっと膨らませた。その様子が可笑しくって、思わず吹き出してしまった。
「っ、笑ったな!」怒りながら、カイがぽこぽこと背中を叩いてきた。その様子さえ歯痒くって、余計に笑ってしまう。
ずっとここにいたい。カイと一緒にずっといたい。
けれど、これ以上は陽が沈んでしまう。日が沈めば、鬼が出て村へ帰れなくなってしまう。
口惜しさに眉根を寄せていると、僕の背中を叩く小さな拳が、叩くことを止めて、僕の肩をそっと掴んだ。
「もう、帰らなきゃ。」カイの小さな手を握ると、温かかった。
「明日も、来てくれる?」期待と不安の入り混じった、吸い込まれるような黒檀の、大きな瞳でカイが聞いた。
「うん。明日も明後日も。それからもずーっと会いに来るよ。約束だよ。」
それから、約束の指切りをした。
じゃあね、と手を振ると、カイがちょっぴり泣き出しそうな、けれども嬉しそうな顔で、またね、と手を振りかえしてくれた。

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