小説カイコ       ryuka ◆wtjNtxaTX2 /作



第一章 ふりだし編(22)



「静かにね。」太一が、急に緊張した声で言った。「誰か居たらすぐに隠れるから。」
「どうして…?」聞き返しても、二人とも答えてはくれなかった。

けれど誰にも会うことは無かった。何せ霧が濃くて周りの風景は何も見えない。全く方向が掴めないが、二人は迷いなく歩みを進めるのだった。二人の表情はどこか険しいというか、不安があるというか、あまりいい感じではなかった。太一は眉根を寄せてキッと前を睨みながら黙々と歩いているし、ハツは太一の隣でずっと下を俯いている。その様子はどこか張りつめた感じがあった。まるで、こっそりと秘密で悪いことをしているような、そんな緊張感があるのだ。
何となく居心地の悪さを感じながらも俺も黙って二人の後を付いて行った。


それから、どれほど歩いたのだろうか。
薄暗い霧の世界に、急に陽が差した。周りが明るくなり始めると、次第に霧も消えていって視界が晴れた。

「見て!」ハツがパッと明るい表情になって俺を振り向いた。「町があんなに近くに見える!」
「わぁ、本当だ。」太一が嬉しそうに言った。

ハツが指差した方向には、よく目を凝らして見ると確かに人家が多く見えた。昨日見た村の風景とはずいぶん違う。山の裾と裾の間に平たい大地が広がっていて、そこの部分だけ緑色はなくて町っぽい感じになっている。

「でも、まだまだだなぁ。やっぱり遠いや。」
「あと、どれくらいかかるの?」若干、膝が痛くなってきた。そろそろ疲れた……
「なんだがや、高橋はもう疲れちゃったのかなぁ?」太一が馬鹿にしたように笑った。笑いながら、さぁ歩くよ!と、一声上げるとまた歩き出してしまった。半端ない体力だな。
ふと、ハツの方を見るとこちらもまだまだ元気そうだった。俺と目が合うと、二、三回まばたきをすると愛想よくにっこりと笑って歩き出してしまった。しょうがないので二人の後をまた付いていく。

やっと町に着いた頃には太陽は真上に上っていた。たぶん正午だ。じゃあきっと六時間近く歩き続けていたということなのだろうか……
こっちはベロンベロンに疲れているのに、やっぱり二人はとても元気そうだった。きっと内心で未来人は体力が無いんだね、とか思っているに違いない。

町は、とても賑わっていた。多分地元の我島岡のほぼシャッター街と化した商店街よりも賑わっている。
中年の、少し太ったおばさんが何かを焼きながら大声でどうかねどうかね、とか言いながら食べ物を売っている。ほんわかと芳しい匂いが漂ってきて、不本意ながら腹が鳴ってしまった。
途中、赤い風車を両手に沢山持った、人の良さそうな老人が太一たちに近づいて、どうかねどうかね、と風車を回して見せていた。二人とも喜んで見ていたが、結局二人が風車をあまり欲しがらないのが分かると、老人はふいと向こうに行ってしまった。

「ここだ。」太一が、ある一軒の店の前で立ち止まった。
小さな店で、庇の上には『堂流点』と書いてあった。多分右から読んで点流堂と読むんだろう。
「ここが薬屋さん。でもすっごくお薬高くてね……僕らじゃとてもとても。」
「え…じゃあ買えないの?お薬は。」じゃあなんでこんなに歩いてきたんだろうか。
「ううん、買えるよ。……お邪魔しまーす。」言いながら、店に一歩踏み込んだ太一の表情は暗かった。


店の中は薄暗く、土埃がもうもうと漂っていた。壁の少し高いところには一つだけ格子のついた窓があって、そこから細々とした光が入ってきている。まるで小さく空を切り取ったみたいな窓だった。


「いっらっしゃい。小さな御客人たちよ。」

どこからともなく、男のしわがれた声が聞こえた。
どこに人が居るのだろうかと思って周りをキョロキョロ見回すと、あろうことか目の前に居た。俺たちの前には人が丸々一人入ってしまいそうなほど大きな瓶が三つ並んでいて、その真ん中の一つから、老人の顔だけがまるで生首みたいにひょこんと出ていた。どうやら瓶の、俺たちとは丁度反対側に座っているらしい。でもこっちから見ると顔だけ生首みたいにあるみたいで、少し不気味だった。

「……もってきたのかね。もってきていないのかね。もってきていないのなら、売らぬぞよ。」ゆっくりと、けれど凄味のある声で独り言のように呟く。
「もちろん持ってきました。」強張った声で太一が答えた。すると、ハツが持っていた小さな灰色の手提げから、さらに小さな巾着を出した。それを震える手で老人のところまで持って行くと、痩せこけた老人の土気色の腕が一本ぬっと出てきて、それを受け取った。

中身を確かめながら老人はブツブツと何か呟いた。どうやら満足しているらしい。
「よろしい。売ってやる。」

するとのっそりと老人が立ち上がった。とても小さな身体だ。おぼつかない足取りで背後にあった沢山引き出しの付いた大きな黒い棚に近づくと、そのいくつかの引き出しから、それぞれ怪しげな草の束のようなものや木の実のようなもの、さらに根っこみたいなものを取り出した。ゆっくりとした手付きで何種類か取り出すと、それを長細い黒ずんだ鉄のような容器に入れて、丸い擦り棒でゆっくりと擦りだした。

その様子を俺を含めて三人でじっと見ていた。やがて、その草やら木の実やら根っこやらが細かい粉末になった。最後に、小さな水差しを取り出してその怪しげな粉末に振りかけると、老人は擦り棒を脇に置いた。それから、薄茶色の大きな和紙でその粉を丁寧に四角く包むと、無言でそれをハツに差し出した。
ハツは小さな声でありがとうございます、とお礼を言うと、相変わらずに震える手でそれを受け取って、再び小さな灰色の手提げにしまった。それから、二人は逃げるように店の外に出て行ってしまった。

「若者、」二人の後を追って店を出ようとした俺を、老人の声が呼び止めた。「気を付けよ、そなた、逆さだ。」
「さ、逆さ?」老人の顔を見ると、珍しい物でも見るような目付きで、俺を見ている。口元は少し笑っていて、不気味だ。
「左様、逆さである。そなたの渦は人のそれとは違い逆さ周りだ。珍しい。」
「え…あの、よく分からないんですけど……」
老人はまるで蛙の鳴くような潰れた低い声で愉快そうに笑った。「愚かなことよ、気付きなんだか。左回りということだな。」

左回り、またか。青服もそんなこと言ってったっけ。……それに、拓哉も。
「教えてください、なんなんでしょう、その、左回りって。」
「断ろう若者よ、馬の耳に念仏とは言ったものよ。私は忙しい。」にやりと笑って老人はそう答えると、店の奥に引っ込んでしまった。

薄暗い店内には、相変わらずもうもうと土埃が煙っていた。