小説カイコ ryuka ◆wtjNtxaTX2 /作

第一章 ふりだし編(16)
その時、遠くの方から低い、遠吠えのようなうなり声が聞こえた。
「あのおっさんだ。」柚木さんがさっと表情を変えた。「あいつ一体何なんだろ。怪物なのには間違い無いみたいだけど。まぁ土我がどうにかしてくれるかな。」
「さっきは本当にびっくりしたんですよ、俺。覚悟決めてたら突然誰かの後姿が目の前にあって。あの茶色いコートに灰色の髪の毛だったからすぐに土我さんだって分かったんですけど……」その時、ひやりと嫌な感覚が背中に伝った。「…土我さん、大丈夫なんでしょうか。あんなの相手に、」
俺の言葉を遮るように、柚木さんが笑った。「大丈夫だよ、きっと。俺らはどうすることもできない。それにね、助けに行ったところで邪魔なだけだよ。」俺の考えを見抜いたような言葉に、少しギクリとした。
「ええ、……そうですね。」
◇
「ああ、いつぞやに会った奴婢殿じゃあないか。」青服が、忌々しそうに土我を睨みながら言った。腕からは、黒い液体が出ている。「痛い痛い。あの子供まで逃がしてくれたな。……奴婢殿の考えることは未だに理解できないね。」
奴婢、という言葉に土我が片眉を上げる。「鬼よ、そのような物言いで俺を辱めようとも無駄だぞ。」
青服の鬼は、土我の言葉をニタッと笑った。その瞬間、鬼の顔が人の顔に戻り始めた。しかし元の顔ではない。若い、美しい女性の顔だ。
腰まであった白髪交じりの髪はゆっくりと色を変えて、艶やかな黒髪になっている。青色だった服は、いつの間にか濃い藍色の、上品な着物になっていた。
その様子を、土我は冷めた目付きで眺めていた。
「何のつもりかな。」土我が冷たく言い放った。「そんな安い顔ではないぞ、あいつは。」
「別にいいじゃあないか。」女の顔で、さっきまでの中年の男の声音で言う。「これだけでもあんたが僕に刃を向けにくくなったと思ったんだけど。それで、聞かせてくれないかな。」まるで本物の女性のような、優しい笑顔をつくる。鬼の長い黒髪を揺らすように、冷たい風がそっと吹いた。
「どうして、人の子なんて助けたんだい?人喰い鬼のくせに。」
ふと、土我は考え込んだ。風が、音も立てずにそよいでいる。
「お前と一緒にされては気分が悪いな。俺は人喰い鬼ではないわ。」
笑いながら、土我は左手に持った白銀の刀を見つめた。微かな月の光に照らされて、刀が放つ怪しげな白い光とは対照的に、真っ黒な液体が先端にべっとりと付いていた。
「人など好んで喰わぬ。俺は外道の外道を行く者故な。」細い指先で、刀に付いた鬼の黒い血を拭った。黒くなった人差し指を、土我はそのまま口元へと運ぶ。その行為に、鬼は思わず鳥肌を感じた。
「何をしているんだ…やはり、やはり奴婢殿の考えることは、解せぬものよ!」鬼の声が負けじと荒がる。
「俺が好んで喰すはな、」その様子などお構いなしに、土我は鬼をちらと見やって笑う。そして毒を含んだような真っ赤な舌を少しだけ出すと、指先に付いた黒い水を舐めた。
瞬間、瞳が青白く輝く。
見開かれた瞳孔は猫のように縦に細く、ヒトのものでは無かった。
「……お前のような、外道の肉よ。」
細い瞳孔が女の姿をした人喰い鬼を捕らえる。夜の深い闇の中で、月のように輝く青白い瞳は、それだけで十分だった。十分に、人喰い鬼を動けなくさせた。

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