彼女が消えた理由。

作者/朝倉疾風



第4章 『傷に触れ、痛みに触れ、心に触れ』3



立ち去ろうとする彼女の腕を、俺は掴むことはできなかった。
引き止めることが、できなかった。
彼女の不安定さを目の前にして、これ以上は関わりたくないと体が拒否した。
五鈴もそれは同じなようで、ヤスのゲロの残滓を眺めながら茫然としている。

「────あいつらの父親は、人を殺したらしい」

しばらく時間が経って、五鈴が口を開いた。
関わりたくないのに、どうして俺は聞いてしまうんだ。

「これは曳詰サイに聞いたことだ。 彼は近所の噂とか陰口で聞いたらしいんだが」

殺人。
人を、殺す。
字面にすれば簡単だが、人を殺すことも、また簡単だ。

「精神病院で隔離までされていたらしい。 そんな男が、どうやって病棟から出てきたのかは知らねえけどな」
「あの兄弟は、どうしてノリトを捜してるんだよ」

雑巾を浸して、胃液の酸っぱい匂いのするそれを拭きとる。
嫌悪感はさほどなかった。

「父親が、ノリトという少年を求めていたからだ」
「…………?」
「俺もよく知らんが、あいつらの父親は未だに幼い心のままらしい。 その頃に出会ったノリトに執着し、彼らにもノリトとして接するようになった」

サイと、ヤス。
ふたりの兄弟は父親に違う存在として認識された。
ひとりの少年、ノリトとして。

「自我があるのはサイのほうだ。 あいつはまだギリギリで踏みとどまっているが……ヤスのほうは、完全に崩壊したらしい」

人格を受け入れられなかった妹は、自分は少女ではなく、少年なのだと思い込む。
そして、閉ざされた世界で唯一自分の味方となってくれた 「兄」 を……サイだけを愛するようになる。

「ヤスは肉体的性別は女だが、明らかに父親が求めたノリトを面影を人格に宿している」
「────人格は男性ってわけか」

サイは、そんな彼女を受け入れた。
そして決意した。
ノリトを見つけ出して、父親に自分たちは 「ふたり」 なのだと、認識してもらうために。

「そのノリトが、ここに居るわけ?」
「らしいな。 そいつの特徴は何もわからないから、名前だけであたってみるしかない。 年齢も、名字もわからない」

雲を掴むような話だ。
田舎とはいえ、人口はそれなりに多い。 ここでたった一人を見つけるなんて。
夢物語だ。

「ちょっと調べてみようか」
「は? ……どれで」
「インターネット。 殺人事件を起こしてるんだろ? 絶対に何件かはヒットすんじゃねぇの? 曳詰なんて、名字も珍しいし」

ゲロをすべて片づけて、五鈴が持ってきたノートパソコンをあけてみる。

「あいつらの父親の名前、なんだよ」
「曳詰ヤシロ」

曳詰ヤシロ……か。
名前まで変わった名前だな。 ヤシロ、か。 神社みたいな……。

「あ、でた」

そして、俺たちは知ってしまう。



30年前に起こった、とある少年と少女を中心にして起きた事件のことを。

そして、

ノリトという少年がすでに、この世から消えてしまっていることも。