コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ

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アイドルな彼氏に猫パンチ@
日時: 2011/02/07 15:34
名前: め〜にゃん (ID: AO7OXeJ5)

今どき 年下の彼氏なんて
珍しくもなんともないだろう。

なんせ世の中、右も左も
草食男子で溢れかえってる このご時世。

女の方がグイグイ腕を引っ張って
「ほら、私についておいで!」ぐらいの勢いがなくちゃ
彼氏のひとりも できやしない。


私も34のこの年まで
恋の一つや二つ、三つや四つはしてきたつもりだが
いつも年上男に惚れていた。

同い年や年下男なんて、コドモみたいで対象外。

なのに なのに。


浅香雪見 34才。
職業 フリーカメラマン。
生まれて初めて 年下の男と付き合う。
それも 何を血迷ったか、一回りも年下の男。

それだけでも十分に、私的には恥ずかしくて
デートもコソコソしたいのだが
それとは別に コソコソしなければならない理由がある。


彼氏、斎藤健人 22才。
職業 どういうわけか、今をときめくアイドル俳優!

なーんで、こんなめんどくさい恋愛 しちゃったんだろ?


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Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.553 )
日時: 2014/07/16 15:48
名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)

「じゃあ、秋人くん。三日間留守にするけど、あとの事お願いね。」

雪見がそう言いながらケータイをバッグに仕舞い、トランクとカメラバッグを手にすると、
秋人がスッと二つの荷物に手を伸ばし、ニッコリ笑って外まで運んでくれた。

「任せて下さい。次の撮影のスタンバイも、ちゃんとしておきますから。
仕事のことはすっかり忘れて、楽しんで来て下さい。」

「ありがとう。でもドキドキして楽しむ余裕ないかも(笑)」

「大丈夫ですよ。健人さんはどんな時でも完璧ですから。
あ…すみません。そんなこと、俺が言わなくても雪見さんが一番よく知ってますよね。」

余計なことをと秋人は詫びたが、健人を尊敬して止まない人に穏やかにそう言われると
心から安心出来る気がした。

「ううん、そうね。秋人くんの言う通り。
健人くんなら大丈夫だよね。うん、楽しんで来る。
秋人くんも久々のお休み、楽しんでね。じゃ、行ってきます。」

「行ってらっしゃい。」


早朝からスタジオで、人気アイドルと大物ミュージシャンの撮影をこなし、
合間に自身への取材を受けた雪見は残りの片付けを秋人に託し、15時05分発の便で
ニューヨークへ向かうべく迎えの車に乗り込んだ。

成田を飛び立ち12時間51分後には、愛する人の待つ地へと降り立つ。
そしてその3時間後の夕方6時には、いよいよ健人が主演を務めるハリウッド
アクターズアカデミーの発表会「ロミオとジュリエット」の幕が上がるのだ。

本当はもっと早くからそばにいてやりたかったけど、仕事はギリギリまで詰まっていて、
前日からNY入りしたいなんてワガママは到底言えるはずもなかった。

こんな時、少なからず今の仕事を後悔してしまう。
お金を稼ぐのは大変だったけど、時間を自由に使えた猫カメラマン時代は良かったな、と…。

窓の外に流れる大都会の雑踏を、ぼんやりと瞳に映す。
すると脳裏はそれを否定するように、気ままに猫を追いかけてた田舎の畦道や、
海辺で気持ち良さげに昼寝する、木陰の猫を投影し出した。

いけない、いけない…。
ただの猫カメラマンじゃ、健人くんには釣り合わないの。
明日舞台の幕が下りた瞬間、『世界の斉藤健人』に名を変えるのだから…。

大きな歓声。鳴りやまない拍手。
世界への扉がギギッと開く音が、耳の奥から聞こえる。
間違いなく何かが大きく変わる予感を遮断するため、雪見は瞳を閉じる。
と、ものの数分で眠りの神様が、スッと現実世界から引き離してくれた。




相変わらず人、人で溢れかえる成田空港。

最近すっかり顔を知られるようになった雪見は、昔のように店をブラつくことも、
時間潰しにビールを一杯♪てことも躊躇するようになった。
しかも今回はプライベート旅行。
盾となってくれるマネージャーの今野もいない。
出国手続きを済ませた後は、キャップを目深に被って黒縁メガネを掛け、
極力人目につかぬよう隅の方でひっそり本を読みながら、搭乗案内を待っていた。

と、その時。
後ろに座る女子二人の会話が耳に飛び込み、雪見は驚いて顔を上げた。

「ちょっ、見て見てっ!ネットニュースにニューヨークの健人が出てる!
キャーッ!来年公開のハリウッド映画に、準主役で出演が決まったってー!!
うそ!しかも監督と主演はロジャーヒューテックなのぉ!?凄い凄ーいっ!」

「ほんとだっ!え?明日記者会見があるー!ニューヨークの明日夜9時って、日本のいつ?
てゆーか、うちら日本にいないじゃん(笑)
ママに電話して、ワイドショー片っ端から録画してもらわなきゃ!」

どうやら情報が解禁になったらしい。
雪見も急いでスマホをバッグから取り出し、ネットニュースをくまなく読んだ。
想像通り、各メディアはトップニュース扱いで大騒ぎしてる。

そのうち、前からも横からも健人の記事にはしゃぐ声が聞こえてきて、
雪見は思わずキャップのつばをグイと下げ、誰にも見つからないよう息を潜めた。

それにしても明日の夜9時から会見って…発表会が終わったすぐ後?
夜は二人っきりで、舞台の成功をお祝いしたかったんだけどな…。

そんなこと、始めから無理だとわかってる。
記者会見が無かったとしても、クラスで打ち上げするに決まってるし、
主演のロミオが居ない打ち上げなどあり得ない。
だけど…。思うだけは自由だよね…と溜め息をついた。

ネットの中で微笑んでる健人は、思ったよりも早いスピードで、手の届かない
どこか遠くへ運ばれて行くらしい。


再び本の続きに目を落とす。
が、残念ながらもう一行も頭に入ってこない。
時間が出来たら読みたいと、ずっと思ってた大好きな作家の素敵なお話なのに、
ちっとも心に響かなくなった。

「はぁぁ…。」

諦めてページをパタンと閉じる。
ボーっと膝の上の表紙を眺めていたら、スッと近寄って来た人の声が頭上から降ってきた。

「Can I sit next to you?」(隣りに座ってもいい?)

若い外人男性の声だなと思いながら、隣に置いたカメラバッグを急いで膝に乗せる。

「Certainly!Have a seat!」(どうぞ!座って。)
空いた席を手のひらで示し、にこやかに顔を上げてアッと驚いた。

「ゆ、優くんっ!?どーしたのっ?」

そこに立ってたのは見上げるほど大きな人。健人の心友、優ではないか!
だが、大きかったのは雪見の声もだ。
一斉に周りの視線がこっちを向き、優を見つけてキャーッ!と歓声が上がってしまった。

しまった!と慌てる雪見。
しかし優は一つも動じず、いつものことさ、という顔してニッと笑った。

「久しぶりだね!ゆき姉。元気そうで安心したよ。
翔平から、入院してたって聞いたから。」

「うそっ!翔ちゃんが言ったの?
くっそ、翔平めぇー!あんなにナイショだって言ったのにぃ!!
でもまさか、健人くんにも話したんじゃ…。」

『綺麗な顔して突然飛び出す男言葉に、めちゃギャップ萌えすんだよなー。』
上機嫌に飲んでそう話してた健人を思い出し、『今みたいなやつね。』とクスリと笑った。

しかし雪見は、とても心配そうな目を向ける。
自分が倒れたことも頑なに隠すほど健人に気を使って…と、その健気さを
いじらしく思った。
だから俺はこの二人を応援したくなるのかも知れない、と…。

「大丈夫だよ。健人に言ったらぶっ殺す!って釘刺したんでしょ?(笑)」

「ぶっ殺すなんて言ってなーい!ぶん殴るって言ったのっ!」

「あははっ!まぁ殺されるのも殴られるのもイヤだろうから、翔平は言わないよ。
そーだ。まだ時間あるから、あっちでビールでも飲まない?」

「え?…あ、うん。行く。」

物騒な言葉のやり取りに、周りが引いてるように見えたのは気のせいではないだろう。
雪見は取りあえずこの場所この視線から逃れようと、荷物を抱えて優を追い越した。

「ちょっとちょっと。そのカメラバッグ、うちのマネージャーに預けるから貸して。
別に、ここで撮影始める訳じゃないだろ?(笑)
悪ぃ!ゆき姉のカメラ、見張ってて。あっちでビール飲んでくるから。」

雪見は何度か顔を合わせたことのある優のマネージャーにペコリと頭を下げ、
「すみません、お願いします。」と大事なカメラバッグを預けた。


立ち飲みスタンドで顔を隠すようにうつむき待ってると、優がビールを両手に戻ってきた。

「よしゃ、乾杯っ!」「カンパイ!うーん、おいしー♪」

「ほんっと、酒飲んでる時のゆき姉って幸せそうだよね(笑)」

「だって、空港で飲むビールって格別じゃない?旅のワクワク感が倍増するっていうか。
…て、聞き忘れてたけど、優くんはどこ行くの?何時の便?」

雪見がアッという間に飲み干して「もう一杯飲もっかなぁ♪優くんも飲むでしょ?
次は私がおごるよ。」と、ビールを買いに行こうとした時だった。

優の返事に「…え?」と言ったきり足が止まった。


どうやら優の行き先もニューヨーク。
しかも、ハリウッドアクターズアカデミーの大ホールらしい。










Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.554 )
日時: 2014/08/16 19:18
名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)

「アカデミーの大ホールって……うそーっ!
優くんも健人くんの発表会、観に行くのぉお!?」

目をまん丸くして驚く雪見を、優はとても愉快そうに見てる。

「そ!思いがけずね。
まぁ、それが目的で行くわけじゃないんだけど、同じ場所でやることになったから
ラッキー♪ってね。」

「同じ場所で、って…何を?」
ハテナ顔の雪見を楽しんでる優は、なかなか答えない。

「さーて、何があるでしょう(笑)」

「いじわるー!教えてよぉ!アカデミーの大ホールで何かあるの?
…あ!ハリウッドを紹介する旅番組のロケ、とか?」

「あははっ!残念ながらそんなんじゃないよ。
てか、あなたさっきネットニュース見てたでしょ?周りもみんな騒いでたじゃん。」

「は?ネットニュース?みんなが騒いでたって…健人くんの…記者会…見?
…え?まさか…優くんも記者会見に出るってこと?
それって、健人くんと同じ映画に出る…」

「シィーッ!一応明日までシークレットだから。
でも正解。やっと当たった(笑)さ、ビール買ってこよ♪」

「ちょ、ちょっとぉー!次は私がおごるんだってばぁ!」

優は、女子におごらせるなんて事はあり得ない。
190㎝の大男は常に最上級の紳士でありナイトであり。
それは健人に対してもそうであってくれるので、雪見は安心していられた。

「お待たせー。」
再び美しく注がれたビールをそろそろと持ち帰り、優が「ほいっ♪」と
片方を差し出す。

「ありがと。」

「じゃ、も一回カンパーイ!ウマッ♪
ゆき姉の言う通り、空港で飲むビールはひと味違うわー。」

「でしょでしょ?…て、ビール飲んでる場合じゃなーいっ!
ね、ね、今の話…ホント?」

身を乗り出し小声で聞いた雪見に、優はニカッと笑ってピースした。
その瞬間の、雪見の嬉しそうな顔ときたら。
キャッ!と声を出したいのに出せなくて、足がバタバタしてるのが可笑しかった。

「とにかくそーゆーこと。今は詳しく話せないけど、いい役もらったよ。」

「凄い凄いっ!ホンギくんに優くんまで!どんな映画になっちゃうんだろ、楽しみ〜♪」

無邪気に浮かれる雪見だったが、どうやらまだ大事なことを知らされてないようだ。
健人のことだから、公式発表が行われるまで詳しい話はしないつもりなのだろう。
目の前で笑う人を見て、この笑顔がいずれ曇る瞬間が訪れることに健人同様、心が痛んだ。

「そろそろ戻ろっか。」

残りのビールをグイッと飲み干したところで、二人は自分らの状況を把握した。
いつの間にか遠巻きに、林の中でぐるりと野犬に取り囲まれたハイキング客状態になってたのだ。

「あちゃーっ!やっぱ、こーなるか(笑)」

「どうしよ…。」

雪見は顔をこわばらせ、身を硬くした。
ファンが怖い訳ではない。
優と二人でいることに、あらぬ噂を立てられるのが怖いのだ。

通信網が驚異のスピードで進化を遂げた今、誰もがパパラッチやスクープを狙う記者に
簡単になれる。
誰かが得た情報は、一瞬にして世界共有の情報になるのだ。
それは『真実も嘘も』一緒くたに。

しかし言い換えれば、50人のマスコミが一万人に増えるようなもんで、
時と場合によっては絶大なる広報ツールになる事を、優はすでに心得ていた。

「うーん、まだちょっとは時間あるよね。…よしっ!」
「え?うそ。優くんっ!」

優は驚く雪見をその場に残し、自らツカツカと客人に近づいて行った。

「写真はNGだけど握手はいいですよ。そんなに時間取れないけど。
あ…知ってると思うけど、あの人、俺の彼女じゃないからお間違えなく(笑)」

手を差し出された女子5人グループは、思わぬ優の対応に顔を上気させ
キャーキャー言いながら次々と握手する。

「斉藤健人の彼女さん…ですよね?もしかして、健人の舞台観に行くんですか?」

「お!あったりぃー!偶然同じ飛行機だったから祝杯上げてたの。
君たち知ってる?健人がハリウッドデビューするって。
明日記者会見あるみたいだけど、他にも日本のカッコイイ俳優出るらしいから要チェックね♪
じゃ、気をつけて行ってらっしゃーい!」

優は、わざと周りにも聞こえるよう大声で話し、五人組に手を振る。
見送られた彼女らは「行ってきます!」と、その場を離れるしかなく、
見事なまでのファンさばきを雪見は呆気にとられて眺めてた。

その後も次々差し出される手を、優は嫌な顔ひとつせず握り返す。
まるで雪見への防波堤のように。

一通り握手し終わると、「じゃ、俺達も行ってきまーす!ゆき姉、行くよ。」
と声を掛けてくれたので、雪見も「行ってきます。」と小さく微笑み、
ギャラリーに会釈した。

「ありがと、優くん。」
歩きながら礼を言うと、優は意外な返事を返した。

「俺が向こうにいる間は…俺が健人を守るから。」

「えっ…?」
優は雪見を見ることもせずそう言うと、歩くスピードを少し速めた。

前を行く大きな背中をボーっと見ながら後ろを歩く。
と、忘れかけてたあの日の不安が、フッと蘇った。

綺麗なブロンドのジュリエットが、瞼の裏側に不敵な笑みを浮かべて待ち構えてる。
愛する人に会いに行く旅は、敵の懐に自ら飛び込む覚悟をも必要としてた。




「はぁぁ…やっと着いた。やっぱ東京からNYは遠いわ。
ゆき姉、荷物持つよ。」

「大丈夫。優くんの方が大荷物だもん(笑)さ、行こう!」

13時間超の長旅を終え、やっとJFK国際空港に降り立った雪見らは
手続きを済ませ荷物を受け取ると、タクシー乗り場へと急いだ。

発表会開演まで、あまり時間に余裕はない。
優の泊まるホテルと雪見の帰るアパートが近いので乗り合わせ、取りあえず
荷物を置いてからアカデミーに駆け付けることに。
しかし、すでにタクシー乗り場には長蛇の列が出来ていた。

「ヤバくね?間に合うかな…。監督より遅れて行くわけにはいかないし。
どうしよ。バスはどうなの?」

「うーん、そうだなぁ…。でもタクシー次々くるから、もうちょっと並んでみよう。」

「じゃ、街中の渋滞状況調べてみるわ。」

そう言いながら優がタブレット端末を手にし、雪見はケータイを取り出すため
カメラバッグを地面に下ろしたその時だった!
横を通り過ぎようとした若い男がいきなりカメラバッグをひったくり、
全速力でその場から逃走したのだ。

「ちょっ!ドロボーッ!!誰かーっ!私のカメラバッグー!!」

余りにも慌てて、日本語で叫んでしまった。
その声に反応したのは優だけで、「待てぇー!!」とすぐさま追いかけてったが、
周りのほとんどの客は日本語がわからず、『なんだろ?』という顔で
走る男の背中を見送った。

雪見はその場に立ち尽くしたまま。
追いかけることは、はなから諦めてた。
歩く速さには自信あるが、走るとなるとからっきしダメ。
今までの人生で、ビリ以外は取ったことがなかった。

「もうダメ…だ…。父さんのカメラ…。」

そのバッグに入ってたのは亡き父の、形見のカメラ。
特別な場面を写す時にだけ取り出す、特別なカメラであった。

「健人くんを写そうと思ったのに…。
今日は健人くんの、特別な日なのに…。」
そう思うとポロポロ涙がこぼれ、その場にしゃがみ込んでしまった。

優のマネージャーが雪見の肩に手を置き「大丈夫ですか?」と聞きながら、
心配そうに優の姿を目で追ってる。
と、突然「あっ!雪見さん、大丈夫ですよ!見て下さいっ!」とマネージャーの声が。

顔を上げ前を見ると、遠くから優ともう一人、見覚えあるスーツ姿の長身男が
カメラバッグ片手に、こっちに向かってやって来るではないか。

『…えっ?うそ…。』

男は雪見の前で立ち止まり、バッグをグイと突き出すと冷たく言い放った。
「大事な物なら手から離すな!」

それは唯一雪見に説教する男。
元カレの学であった。



Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.555 )
日時: 2014/09/03 12:58
名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)

「いやー助かったよ!この人が向こうから来てカメラバッグを…」

「学…。どうしてここに?なんで…いるの?」

興奮覚めやらずな優の説明を無視して、雪見はスーツ姿の男の目を真っ直ぐ見た。
突然の再会であるにも関わらず、なぜか学は驚く気配もない。
いつもと変わらぬ無愛想さでカメラバッグを手渡し、相変わらず仕立ての良い
高そうなスーツで腕組みしながら小言を言った。

「まずは礼を言うのが先だろ?大事なもんを取り返してやったんだから。
オヤジさんの形見が奇跡的に百ドルで戻ってきたんだ。ありがたいと思え。」

上から目線の俺様な物言いに一瞬ムッとしたが、冷静に考えてみてここはニューヨーク。
ドロボーと揉み合い、刺されるケースだって間々あるのだ。
しかも、戻らないと一度は諦めた宝物が無傷で戻ってきた。
学の言う通り、真っ先に礼を言うのが筋だろう。

「ごめん…ありがと。お陰で助かった。絶対戻らないと思ってたから。
でも…よく覚えてたね、このカメラのこと。」

「あぁ。ひと目でわかったよ、雪見のだって。
どっか行く時は必ず持ってたからな、このオンボロカメラバッグ。」

「そう…だね。」

疑いの目でジッと反応を伺ったのだが、学は愛しい思い出との再会に目を細めるだけ。
挙動不審な表情は一切しなかった。

確かに学と付き合ってた頃、どこに出掛けるにもこのカメラを持って出掛けてた。
亡き父が世界を旅した証しの、手荷物タグがたくさんぶら下がった傷だらけのバッグを。

今は大切な時にだけ取り出すカメラなのに、あの頃の自分はいつもそれを持っていた。
この人との大切な時間を残すため…。

過去の自分を不意に突き付けられ、心が沈んだ。
学と健人への熱量の違いを、あからさまに示されたみたいで。

いや、違う。
このカメラへの想い、健人への想いが特別なものへと変化したからだ。
そうに違いないと自分の心を納得させた。


それにしても、だ。
こんな何の変哲もないカメラバッグの持ち主を、一目見て判断出来るものだろうか。
と言うよりも、こんな偶然があるものか。

そう言えば…と、雪見はハッと思い出した。
ホワイトハウスに同伴することになった一件を。
確かあの時も、学は偶然の再会を装って近づいて来たんだ…。

直感的に『マズイ!』と思った。また何かに巻き込まれる、と。
ここは早く百ドル返して、タクシーに乗るのが得策だ。
そう決断したところに、蚊帳の外でしびれを切らしたらしい優が、たまらず口を挟んだ。

「あのぉー。お取り込み中失礼ですが…。もしかしてこちらさん、ゆき姉…の?」

「えっ?…あ、ごめんごめんっ!
私のせいで優くんを危ない目に遭わせるとこだった!ほんっとゴメンね。
急いでたのにタクシーの列からも外れちゃったし、どーしよ…。」

「だーかーらぁ。この人ゆき姉の…。」
シラを切るつもりだったが失敗に終わった。こうなりゃ致し方ない。

「…あぁこの人?ただの知り合い。」

何を企んでるかわからない学に、優を関わらせるわけにはいかない。
二人を遮断する壁になろうと間に立ちふさがった。
が、いかんせん190㎝の優と183㎝の学だ。
その間の156㎝の壁など、顔が丸見えのついたてにしかならなかった。

「そうです!雪見の元カレです。」
「ちょっとぉ!自分で言わないでよ。」

「やっぱりそうでしたか!ホワイトハウスに招待された方ですよね?凄いなぁ!」
「優くん、気付いてたのね…。」

そりゃそうだ。
翔平と二人、ホワイトハウスくんだりまで駆け付ける事になった元凶なのだから。

「ほんと助かりました。僕一人じゃ取り返せなかったと思います。」

「いや、ラッキーでした。
ドロボーが、僕の番組ファンだって言うのは複雑でしたけど(笑)
でもお陰で百ドルで片が付いた。
ほんとこいつは、昔っからどこか抜けてるとこがあって世話が焼けるんですよ。」

「あははっ!今もあまり変わらないかも。」

ついたて越しに、和やかに会話を楽しむ大男二人。
しまいには意気投合しそうな勢いに、雪見は焦った。

「ま、学っ!これから出張なんでしょ?あ、それとも帰って来たとこ?
百ドル…いや、お礼に二百ドルあげる!だから早く行きなさいよ。」

とっとと追っ払おうと、バッグから財布を出そうとした時だった。
学の口から予想外の言葉が飛び出した。

「白崎…優さん、ですよね?ロジャーに頼まれてお迎えに上がりました。
向こうに車を待たせてるのでどうぞ。」

「えっ!?」 優と雪見が同時に声を上げた。

「ロジャーに頼まれて、って…。ほんとに俺を、ですか?
誰かの間違い…じゃなくて?」

「学、それでここに居たの!?」

一気に疑問が解け雪見は半分納得したが、優は目を見開き驚いたまま。
何時の便で着くとは関係者に伝えてはあったが、まさかあのロジャーが
自分ごときにそんな配慮を…と、半信半疑ながらも胸が震えた。

「映画の記者会見にいらしたんですよね?だったら間違いないです。
さぁ、急ぎましょう。」

「ほんとですかっ?ありがとうございます!助かったぁー!!」

学がスタスタ歩き出したので、優とマネージャーも慌てて荷物を手についてった。
が、もっと慌てたのは雪見だった。

「ちょ、ちょっとーっ!私は?私は一人で行けって言うのぉ!?」

「バカ、お前もに決まってんだろ!二人を連れて来いって頼まれたんだから。
とっとと着いてこい!」

「えっ?二人って…私も…なの?」
背中がゾクッとして足が止まった。

なぜ私も…。
私と優くんが同じ便だったなんて、なぜ知ってるの。

「乗りたくないなら別にいいぞ。あの長蛇の列に並び直せばいい。」

「だ、誰も乗らないなんて言ってないでしょっ!」

学がいつになく冷たく言い放った。
その瞳からは真意を読みとれない。
だが…。

たったひとつ、手掛かりを見つけた。
意にそぐわぬ事を強制されると、無意識に唇を噛む癖を。
付き合ってた頃、雪見だけが見抜いた心のSOSを。

なぜ、今あなたは唇を噛んでるの?
それは昔と同じ意味なの?
それとも年月を経て、単なる癖に変化したの?

愛する人に会えるドキドキが、緩やかに速度を落としたことを
まだ雪見は気付いていない。





Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.556 )
日時: 2014/11/08 11:31
名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: XvGA8KD6)

「すっげー!!一番グレードの高いリムジン!」

車に乗り込んだ優が、真っ先に声を上げた。
リムジンには何度か乗ったことのある優と雪見だが、こんなハイグレード車は初めて。
マネージャーに至っては、緊張のあまり顔がこわばってる。

「さすがハリウッドの大スターともなると、乗る車も違うもんねぇ!
でもさ、タクシーじゃなく自分の車を迎えによこすんだから、優くん相当期待されてるよ。
めちゃくちゃ嬉しくない?」

さっきのひと騒動などすっかり忘れ、雪見はキャッキャとはしゃいでる。
が、向かいに座った学の一言に、優と同時に大声をあげた。

「これ、俺の車だけど。」

「え!?」
「ええーっ!!ウソでしょ?これが学の車ぁぁあ!?」

広い車内がにわかに騒然とした。
いくら権威ある賞を獲り、テレビではアメリカ大統領さえ魅了する人気者とは言え
根本的には科学者である。
下世話な話、そこまで儲かる職業では無いことを、一緒に学んだ雪見はよく知っていた。

「この前ホワイトハウスに行った時、車は持ってないって言ったよね?
あの後に買ったの?こんな車を?しかも運転手付きで?
あんた一体、どんな生活してんのよっ!」

「別に。それなりの生活。」

ニコリともせずそう言うと、学はプイと窓の外に視線を外す。
再び唇はキュッと噛まれ、何かを堪え忍んでるようにも見えた。


どうしたの?あなたに何があったの?
ロジャーとは今…どういう関係?


二人きりなら即座に問い詰めただろう。
だが、唇を噛む理由が昔と同じに理不尽さによるものだとしたら、
その答えはきっと、今ここで他人には聞かれたくないものに違いない。

いや、もし二人きりだとしても…もう昔みたいに助けてあげられないよ。
ごめん…。わかってね……。


いま全力で関わるべきは健人であって、学ではないことを自分に言い聞かせる。
そしてあえて明るく、何も気付かぬふりして学に言った。

「そう!これだけ稼げてるんなら仕事もうまくいってるってことね。良かった。
私も毎日忙しくてさ。今回も二日間しかこっちに居れないの。
きっと明日は、健人くんが散らかした部屋の片付けで一日が終わっちゃう(笑)」

「ゆき姉も大変だよねー。家事のまったく出来ない男をダンナにしちゃうんだから。
その点、俺と当麻は優秀だよ。完璧に主婦業こなせるもんね(笑)」

場を和ませようと、優が話に乗っかってくれたのがわかった。
だが和んだのは自分らだけで、学の横顔はより一層の悲しみをまとったかに見えた。


どうしよう…。
この場で私がしてあげられることは何だろう…。

ほんの数分前まで、関わりを遮断しようとしてたはずなのに、今は頭をフル回転させ
学が笑顔になる方法を探してる。


……あ、そうだっ!


雪見は膝の上のバッグに手を突っ込むと、何やらガサゴソ探し始めた。
あれもこれもを持ち歩くため、大きなバッグはいつもパンパンのゴチャゴチャ。
部屋は整頓出来るのに、なぜか鞄の中だけは昔からダメなのだ。
と、突然「あったー!」と叫んだものだから、優とマネージャーがギョッとした。

「な、なにっ!?ビックリするじゃん!」
大きな身体に似合わず少々ビビリ屋さんの優。

「ごめんごめん(笑)家に忘れて来たかと思っちゃったの。これ。」

満面の笑みでバッグから取り出したのは一枚のCD。
そのジャケットには雪見の姿が。

「え?これって、ゆき姉…の??
……うわぁぁぁあああ〜!『YUKIMI&』のCDじゃん!!
出来たの?世界デビューアルバム!」

「えへへっ♪出来たてのホヤホヤ。て言っても、これはまだサンプルなんだけどね(笑)
出がけに届いたから私もまだ聴いてないの。
ねぇ。これ、かけてくれる?」

そう言って雪見は今だ外を眺める学の前に、グイとCDを突き出した。
が、優があんなに騒いだにも関わらず『なにこれ?』という顔をしたので、
相変わらず人の話なんか聞いちゃいないんだな、とクスッと笑った。

「私の世界デビューアルバム。学に一番に聴かせてあげる。」

「えっ?」

思いがけない言葉に、学の心は我に返った。
手渡された物をジッと見てみる。
四角いケースの中の雪見が、小さな小さな子猫を両手でそっと包み込んでる。
それはまるで、か弱き命をすくい上げる聖母マリアのような慈しみ深き微笑みで、
優しく美しく凛として…。

「ねぇ、早くかけてよ。」

「あ、あぁ…。」

雪見に言われなければ、いつまでも眺めていたかも知れない。
学は慌ててジャケット写真の封を切り、CDを指先で取り出した。

こんなハイグレード車のオーディオ機器だ。もちろん最高級品に決まってる。
アーティストでもある優は、そのスピーカーから流れるであろう最上級の音を想像し、
ワクワクしながら吸い込まれゆくCDを見守った。

と、少しの間を置いて流れてきたのは『YUKIMI&』のデビュー曲。
そこから何曲かはアップテンポな曲が続き、その後はバラードあり洋楽カバーあり。
世界デビューだけあって、二曲を除いては全て英語で歌われていた。
みんなは音響の良さも相まって、雪見の歌に酔いしれてる。

そして最後の曲。

「…あ。これって、ホワイトハウスで歌った時の音源じゃ…。」

学がすぐに気付いた。
忘れるはずもない。あの時あの場に居た誰もが息を飲み、涙しながら聴いた歌声
『アメイジング・グレイス』を。

「そう!よくわかったね。ラストはどうしてもこれを入れたかったの。
許可をもらうのが大変だったみたいだけど(笑)
でも私が世界デビューなんて夢みたいなことが出来たのは、あの場所で
この歌を歌わせてもらったお陰。
全部、学のお陰だよ。感謝してる。ありがとう。」

雪見の言葉で心に赤みが差した。救われた気がした。
あの日の想い出があれば生きていける気がした。

アカペラで歌われたアメリカ合衆国の愛唱歌は、雪見の声が消えると同時に大歓声に包まれた。
鳴りやまない拍手の中、「Thank you so much.」と雪見の声が小さく聞こえる。
それに対し「I thank you.」(お礼を言うのはこちらのほうです)と誰かが返事した。

「…ん?どっかで聞いたことある声なんだけど…。
……え!?も、もしかして…だいとうりょぉお!?Oh my God!」

優のリアクションに、雪見と学が顔を見合わせ笑った。


私にしてあげられるのは、こんなことぐらい。
あなたの苦悩に寄り添うことは出来ないけれど、私の歌があなたに少しでも
元気を与えてくれますように。
その笑顔が、いつまでも続きますように…。



CDを聴き終えるとほぼ同時に、リムジンはアカデミーの門をくぐり抜けた。
いよいよ愛する人の待つ場所へ。世界へ飛び出す瞬間を見届けに。
だが、そこにはすでに長蛇の列が。

「うそ、どうしよう!これじゃあもう席なんて無いよ、きっと。
やだぁ…。健人くんの大事な日だっていうのに…。」

今にも泣き出しそうな声の雪見に、学が優しく微笑んだ。

「大丈夫だよ。席はちゃんと用意されてるから。
そっちの関係者入り口から入ればいい。ロジャーの招待だ、ってね。」

「えっ?」

思わず顔を見返したが、学はもう唇を噛むことはなかった。
瞳が『何も心配はいらない。さぁ早く行きなさい。』と背中を押してる。

雪見は、いつもはしない握手をするため、学に右手を差し出した。
なぜかこれが、最後の別れであるかのように…。


握った瞬間、学の手のひらから『さよなら。』が聞こえた気がした。






Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.557 )
日時: 2014/11/21 15:46
名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: XvGA8KD6)

学の車を見送った後、雪見らは一般客の列を申し訳なさげに横切りながら
関係者入り口を中へと入る。
旅の大荷物は、学がそれぞれの宿泊先まで届けてくれることに。
「もう、なくすなよ。」と手渡された大事なカメラバッグだけを手に、
雪見は恐る恐る関係者受付前にやって来た。

「あのぉ…ロジャーヒューテックさんのご招待で…。」

口に出すのもおこがましい大スターの招待客だと名乗る東洋人たちを、
案の定その受付係は疑いの眼差しで見た。

「失礼ですが…何かお持ちですか?」

「い、いや、何も…。」
すごすごと退き『どうしよう。』という困り顔で優を見上げた。

「やっぱ、そうだよね…。
いきなりロジャーの招待客だって言っても、信じてなんかくれないよね。
言ってる本人でさえ半信半疑なんだから。
学も、もうちょっと気ぃ利かせて、ロジャーに一筆書いてもらうとかしてくれたら…。
あーあぁ…。今さら外の列に並んだって入れっこないよ。どーしよ…。」

どうやら遅れた原因が自分であることなど、頭の隅っこに追いやられてるらしい。
あと一歩気の利かない元カレを愚痴り、途方に暮れた。

と、その時である。
向こうから誰かが雪見の名を呼んだ。

「…ユキミ?あぁ、やっぱりユキミだわっ♪」

声の方向に目をやると、そこには健人の担任で研究生クラス教授のミシェルが
にこやかに立っていた。

「先生っ!本日はおめでとうございます。
あ、私ったら…。空港から真っ直ぐ来ちゃったから、お花も買ってなくて…。」

受付前にずらり並んだ色とりどりの祝い花が目に入り、小さく首をすくめる。
隣で優が「スゲー!めっちゃスゲェ!」を連発するように、アカデミー卒業生である
超一流俳優達から贈られた豪華な花々が、名門であることを誇らしげにアピールしてた。

「いいのよ、お花なんて。あなたさえ来てくれれば。
あ、パンフレットは見てくれた?とっても素敵に仕上がったでしょ?
今年は特に評判がいいの。
きっと多くの生徒が、あなたの写真に後押しされてチャンスを掴むわ。
ユキミのお陰ね。ありがとう。」

すっかりパンフのことなど忘れてた。
ユキミのお陰と言われてもピンとはこないし社交辞令に決まってたが、
素敵に仕上がってるのなら早く見てみたい。
だが、残念ながら入場出来なければもらえないのだ。

「あの、私達…。」

かくかくしかじか、ミシェルに事の成り行きを話した。
すると彼女は「まぁ、なんてことを!ごめんなさい。」と謝りながら振り向いて、
先程の受付嬢に驚くべきことを言った。

「彼女は本当にロジャーの招待客よ。悪かったわ、私の連絡ミスね。
ロジャーの隣の席に案内するよう、頼まれてるの。
私がご案内するから、パンフと指定券をちょうだい。」

「えっ!?」

声を上げたのは受付嬢と雪見と優が同時だった。

「ちょっ、ちょっと待って下さい!先生、私達そーいう招待客じゃないんです。
いくらなんでも、ロジャーの隣りってのは(笑)
私達、発表会さえ観れるならどこでもいいんです。なんだったら立ち見でも。」

先生が好意で言ってくれてるのだと思った。
はるばる日本から来てくれたのだから良い席で見せてあげて、と無理を言ってるのだと。
ところが…。

「これはロジャー新理事長からの指示です。」

「えっ…?ロジャー…新理事長?」

心臓がドクンドクンと大きな音を立て始める。
新理事長って一体…。アカデミーの権力者になった…ってこと?

それがどんな意味を持つかなんて想像もつかない。
ましてやあんな大スターが私達を隣りに座らせる理由など、一つも見当たらない。
正体のわからぬ恐怖ほど、恐ろしいものはないのだ。

スッと差し出されたパンフレットを無意識に受け取るが、血の気の引いた指先に
それはズシリと重く感じた。

手の中のものを、ぼんやり眺める。
表紙には、自分が撮した健人がいる。そして、ロジャーの娘であるローラも…。
眺めるうちにそれは瞳の中で、チリチリと滲んできた。

健人くんに会いたい…。

泣きそうになってる自分がいる。
この恐怖から逃れるために、健人の元へ駆け込みたかった。

「先生…。今、ケントには…会えますか?
もし許されるなら、ひと目だけでも会わせていただけませんか?」

弱々しく微笑み涙さえ浮かべる雪見を、ミシェルは驚いたように見て、
「…わかったわ。」と返事した。

「いいわよ、少しだけなら。もうみんな準備は整ってる頃だから。
お友達も一緒にどうぞ。」

本来なら部外者は、もう立ち入ることの出来ない時間だろう。
だがミシェルは、楽屋への立ち入りを許可してくれた。


大ホールに一番近い教室。そこに健人らは居る。
会わせてと自分で言ったくせに、やはりドアの前で躊躇した。

大事な舞台を背負って立つ主役。
緊張と共にもっとも精神を集中してる時間だというのに、私がその均衡を破ってしまう…。
ハッと我に返った。

「やっぱり…止めておきます。ごめんなさい。」

ミシェルに頭を下げ、雪見は方向を見失った遭難者のようにフラフラと歩き出した。
と、その後ろ姿を、誰か大声で引き留める者がいる。

「ゆき姉っ!ケントが待ってるよ、ずっと。」

振り向くと、そこにはホンギが立ってた。
いや、一瞬ホンギとはわからなかった。
衣装をまとい舞台化粧を施してるせいもあるが、彼は今まで見たこともないほどキラキラと
自信に満ち溢れる笑顔で輝いてたのだ。

「ホンギくん!ゆき姉って呼ばれなかったら気付かないとこだった。
凄い…。なんだか別人みたい。とっても大きく見える。
良かったね。良かった…。あれ…?なんでだろ。涙が出てきちゃう…。」

その輝きの源が『スミスソニア』モデル就任や、ロジャー映画出演決定だとわかってたので
雪見は嬉しくて嬉しくて…。

「…え?ちょっ、ゆき姉?なんで?な、なに泣いてんのっ!
やめてよ!俺、ただトイレから戻って来ただけなのに、俺が泣かせたみたいじゃん!
ケントに怒られるって!ちょっと、ユウ!なんとかしてー(笑)」

久しぶりの再会を喜び合う優とホンギを見ながら、涙はいくらでも湧いてくる。
色んなことを抜きにしても、彼らのロジャー映画出演は、やはり喜ぶべき事なのだ。

『ロジャー新理事長からの指示です。』
まだ耳に残るその恐怖に怯えるのは自分一人で充分だと、二人の笑顔を見ながら思った。

「さぁ、時間が無くなるわ。早くケントに顔を見せてあげなさい。
彼はプロフェッショナルだから平静を装ってるけど、本当は押し潰されそうなほどの
プレッシャーと戦ってるはずよ。
彼の緊張をほぐすのは、あなたにしか出来ない仕事でしょ?お願いね。」

ミシェルが教室のドアを静かに開け、窓際で外をジッと眺める後ろ向きの人を指差す。
雪見に気付いた生徒が声を上げそうになったが『シィーッ!』とそれを制し、
ポンと雪見の背中を押し出した。

初デートの待ち合わせ場所に向かうみたいに、なぜかドキドキする。
先生の仕組んだサプライズを理解したギャラリーも、振り向くケントの顔を想像し
一緒にドキドキしながら見守った。

そっと雪見が真後ろまで来た時、気配に気付いた健人が振り向いた。
その瞬間の嬉しそうな笑みときたら。
見守るみんなが幸せな気持ちになった。


「お帰り。」


「…ただいま。」


たったそれだけの言葉を交わすと、健人は雪見をギュッと抱き締めた。
お互いの温もりが隙間を溶かし合い、空白を埋める。

最強の力を手にした二人に、もう恐いものはない。


















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