コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ
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- アイドルな彼氏に猫パンチ@
- 日時: 2011/02/07 15:34
- 名前: め〜にゃん (ID: AO7OXeJ5)
今どき 年下の彼氏なんて
珍しくもなんともないだろう。
なんせ世の中、右も左も
草食男子で溢れかえってる このご時世。
女の方がグイグイ腕を引っ張って
「ほら、私についておいで!」ぐらいの勢いがなくちゃ
彼氏のひとりも できやしない。
私も34のこの年まで
恋の一つや二つ、三つや四つはしてきたつもりだが
いつも年上男に惚れていた。
同い年や年下男なんて、コドモみたいで対象外。
なのに なのに。
浅香雪見 34才。
職業 フリーカメラマン。
生まれて初めて 年下の男と付き合う。
それも 何を血迷ったか、一回りも年下の男。
それだけでも十分に、私的には恥ずかしくて
デートもコソコソしたいのだが
それとは別に コソコソしなければならない理由がある。
彼氏、斎藤健人 22才。
職業 どういうわけか、今をときめくアイドル俳優!
なーんで、こんなめんどくさい恋愛 しちゃったんだろ?
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- Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.507 )
- 日時: 2013/09/30 13:16
- 名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)
「さーて。もうみんなセリフは頭に入ってるわよね?
昨日の配役発表から一夜経ってるんだから。
ま・さ・か忙しかったとか、今日までに覚えてこいって言われてないとか、
上を目指してる人達がそんな恥ずかしい言い訳しないでしょうね?」
ホールの片隅で撮影の準備をしてた雪見は、先生が皆に向かって言った言葉に
思わず「えっ!?」と小さく声を上げてしまった。
うそっ!昨日の健人くんにセリフを覚える時間なんて無かったよ!?
ヘリコプターでワシントンまで飛んできて、ホワイトハウスからずっと
みんなで一緒に居たんだから。
それに家に帰ってからだって…。あー、お風呂でじゃれてる場合じゃなかったぁ!
主役のロミオがセリフも覚えてないなんて、役を降ろされちゃうかも!?
どーしよ!雪見のバカバカバカーっ!!
妻として自分の配慮のなさに愕然とした。
お遊びの留学ではない。そんな甘い世界ではないことを、首根っこを掴まれて
思い知らされた気がする。
絶望的な気持ちになって、カメラを構える気も失せた。
今日が最後の撮影日なのに…。
ところが…。
健人がこっちをチラッと見てニヤッと笑った。不敵な微笑みで。
その意味するところが解らなかったが、とにかく祈りながら息を詰めて見守った。
するとどうだろう。
健人の口から滑らかに、ロミオのセリフが流暢な英語で溢れ出したのだ。
「えっ…?」
しかもセリフをただ読んでるだけではない。
その言葉に感情が乗って、動いてる姿はすでにロミオにしか見えなかった。
「うそっ…。凄い…健人くん…。健人くん、すごーいっ!!」
「シーッ!静かにっ!ユキミもケントに負けずに仕事をなさいっ(笑)」
あまりの驚きと感動に思わず手を叩いて喜んだが、それはもちろん先生に叱られ
みんなにはドッと笑われた。
だが健人は、そんな新妻雪見が可愛くて可愛くて。
みんなと一緒にクスクス笑ったら、ストンと肩の力が抜けて更にやる気が満ちてきた。
ありがとう。ゆき姉はやっぱり俺を照らす太陽だよ。
プロの役者としての健人を再認識した雪見は、こうしちゃいられない!
と速攻仕事モードに切り替わる。
長い髪を素早くアップにまとめると、目の色が変わりオーラが一変。
先程までの無邪気で天然な雪見は姿を消し、仕事が出来る女の強さと鋭さを身にまとった。
当然プロとして、ファインダーの向こうの人を自分の夫だとは思っちゃいない。
そこにいるのは日本が誇る若き名優、斉藤健人だ。
そして自分も、健人を撮らせたら右に出る者のいない世界一のフォトグラファーだと誇り、
舞台上でひときわ光り輝く一番星を目で追った。
凄いものを目撃してる興奮と、それを余さず手中にするぞという闘志にかき立てられて。
しばらくは夢中になって健人だけを追い続けたのだが、ふと我に返って舞台全体を見渡すと、
凄いのは健人だけではなかったことにすぐ気付く。
セリフが入ってないどころか誰一人としてセリフを間違える者などなく、
この発表会がいかに人生の重要なチャンスを握ってるかがわかる熱量を皆が放出してた。
ホンギは?と見ると、ジュリエットのいとこで後にロミオに殺されてしまうティボルト役。
ロミオと敵対する人物で、二人が絡む格闘シーンは劇中の見所のひとつ。
重要な役どころである。
そのホンギもまたセリフと動きが完璧で、それを寝ずに頭に入れたかと思うと、
こんな大事な時期に私達が振り回してしまった事を申し訳なく思った。
それにしても役者とは、よくもこんなに膨大なセリフを暗記した上、
芝居までつけられるもんだと感心する。
健人を見ていていつも思うのだが、頭が良いということは、役者にとって
途轍もなく大きな資質のひとつである、と。
夕方5時。
朝からみっちりと濃厚な稽古を繰り返し、発表会稽古初日が無事終了。
それと同時に雪見の写真集撮影も、本日をもって終了した。
短い間だったが、みんなには自分までもがクラスメイトのように接してもらい、
撮影にも多大なる協力を頂いて感謝の念でいっぱいだ。
「本当にお世話になりました。
最初から最後まで、部外者である私を温かく受け入れてくれてありがとう。
お陰でとても良い写真集が出来上がったと、すでに自負しております。
明日…私はケントを残して帰国することになりました。」
「ええーっ!」
みんなには知らせてなかったので、一斉に驚きの声が上がった。
「ホンギが指輪に刻んださっきの言葉って、そーいう意味だったのぉ!?知らなかった!」
「うそっ!ユキミだけ帰っちゃうの?どうして?せっかくお友達になれたのにー!」
「昨日結婚したばっかだろ?もうケンカしちゃったのかよ?」
思いがけず掛けられた言葉の数々に雪見はウルウルして、唇を真一文字にキュッと結ぶ。
すると健人がスッと隣りにやって来て、そっと肩を抱き寄せた。
「ユキミは入院してるお母さんの看病に帰るんだ。
それと昨日の騒ぎで、事務所から呼び出し食らっちゃったから(笑)
でも俺たちなら大丈夫だよ。ほらっ、いつも一緒だから。」
健人は真新しい指輪の輝く左手で拳を作り、雪見の前にずんと突き出す。
それを見て雪見も左手をギュッと握りしめ、健人の拳にコツンと合わせて目を見て笑った。
「よっしゃ!じゃあこれからユキミの送別会だ!
ついでにケントの結婚祝いもしとくか(笑)さ、みんな行くぞー!!」
「ヤッホー♪みんなで飲み会、久しぶりぃ〜♪」
「キャー嬉しいっ!今日はいっぱい頑張ったから飲みたい気分だったんだぁ!」
「みんなシャワーを急げよー!遅い奴は置いてくぞー!」
「えっ!?ちょっ、私の送別会なんていいよー!みんな疲れてるんだからぁ!
それに明日だって稽古が…」
盛り上がりながら教室を出て行くみんなに雪見が慌ててる。
すると健人がサッと肩を組んで雪見に何やら耳打ちしたあと、
ぽつんとそこに突っ立ってるホンギとも肩を組んだ。
「残念ながらお風呂でワインはおあずけだねっ(笑)
さ、ホンギも行くぞっ!もちろん指輪のお礼だから俺のおごり♪」
「ほんとにっ!?やった♪めっちゃ腹減ってたんだー!
シンコンショヤなのに悪いねー。」
「違うっちゅーの!あのね、新婚初夜ってーのは…」
「健人くんっ!それ以上教えなくていいからっ!」
三人が肩を組みゲラゲラ笑いながら、それはそれは仲良さげに廊下を歩く。
その少し後ろからローラが、冷たい視線を送ってるとも気付かずに…。
「よしっ!じゃあ、ケントとユキミの結婚にカンパーイ!」
「カンパーイ♪二人とも、おめでとう〜!!」
アカデミーから程近いお洒落なカフェバーに移動した一行は、思い思いの飲み物を持って
健人と雪見の前に集まり、二人とグラスを合わせては乾杯を繰り返す。
「今日はサイトウケントさまご夫妻のおごりだそうです!皆さんもお礼言ってね!
さぁ、ジャンジャン料理が来るから、まずは食べて飲もう!」
「いただきまーす♪」
宴が始まって少し経った頃、ふと周りを見渡した健人が、向こうでぽつんと
一人でいるクラスメイトに気付き声を掛けた。
「ローラもこっちに来ない?一緒に飲も?」
「えっ?…いいの?」「もちろん!」
いつもさりげなく気を配る健人の優しさを、雪見もホンギも誇らしく思う。
心がほんわかした二人は、笑顔でローラに向かって手招をした。
彼女のはにかんだ微笑みが、捕獲完了の合図とも知らずに…。
- Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.508 )
- 日時: 2013/10/03 06:42
- 名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)
「お邪魔じゃ…ないかしら。」
「ぜーんぜん!さ、どうぞ!ここ空いてるわよ。ホンギくん、一個ずれて。」
健人と雪見は一応主賓兼スポンサーと言うことで、ホンギと共にカウンター席に座ってる。
目の前で美味しそうな料理が出来上がるさまや綺麗なカクテルが注がれる様子は、
確かに見ていて楽しいのだが、ボックス席と違って横並びになるので
端と端の人は話がしにくい。
なので雪見はローラを間に入れてあげようと、自分とホンギとの間に席を設けたのだが
ローラはそこを素通りし、奥に座る健人の向こうにスッと腰を下ろした。
「あ…。」
ホンギが、せっかくずれたのにぃ!という顔して雪見を見てる。
「まぁまぁ(笑)ね、何飲んでるの?好きな物どんどん頼んでね。
今日はロミオのおごりだから。」
雪見はにっこり笑って、右隣の健人を挟んで向こう側にいるローラに話しかけたつもりだった。
が…後ろのボックス席の盛り上がりで声が届かなかったのか。
ローラは健人の顔を覗き込み「何飲んでるの?私も同じの、もらっていい?」
と天使のような愛らしい顔で小首を傾げて聞いていた。
「……ま、いっか。健人くんに相手を任せて私達は食べよっ。これ美味しそー♪
わ!めっちゃ美味しいよ!ホンギくんも食べてみてっ!」
雪見は嬉々として料理を食べワインを飲み出した。
だがホンギは、どこかの感覚が微かにキャッチした違和感が気になり、
いつものように夢中でご馳走を頬張るわけにはいかなかった。
『そもそもローラって何者なんだろ…。
誰かと話してるのも、あんまり見たことないな…。
確かにジュリエットに選ばれるくらい可愛くて、芝居もずば抜けて天才的だけど
レッスン終わったらすぐ帰っちゃうし…。友達いないのかな…?
てか、まさかの…ケント狙い?よしっ。少しリサーチしとくか。』
ホンギはいきなり料理を口いっぱい頬張りビールを一気飲みすると、
「ちょっと向こうの奴らの料理、つまみ食いしてくる!」と雪見に言い残し席を離れた。
「ちょ、ちょっと、ホンギくんっ!お料理好きなの頼んでいいんだってばぁ!
もぅ…。私一人にしないでよ…。」
雪見は健人にも聞こえぬほどの、小さな溜め息をついた。
隣りでは、しきりに話しかけるローラの相手を健人がしていて、何やら楽しそうに笑ってる。
雪見はなるべくそっちを見ないようにして、ホンギが戻ってくるのをひたすら待ちつつ
ワインをグイグイ飲んだ。
残念ながら…ローラの言動に気付かぬほど鈍感ではない。
稽古の様子をファインダーから覗いていても、ローラが健人を見る目は他の人と違ってた。
だが『ロミオ&ジュリエット』を演じるのだから、舞台の上では恋する瞳になって当然。
稽古が終わってからだって、一日も早くお互いを分かり合い心を通わせることこそが
舞台の成功を大きく左右することぐらい理解できる。
それに健人はいつだって、誰にだって平等に優しい。
でも…。それを間近で見てることの辛さときたら…。
いや、ダメだ。そんな事を思ってはいけない。
健人がモテて人気者であるのは百も承知で結婚したんだ。
ただの彼女のようなヤキモチを焼いてはいけない。
これからの私は妻として、マネージャーと同じく「ケントをよろしくお願いします。」
と、謙虚に頭を下げるくらいの気持ちでいなければ。たとえ心裏腹だとしても…。
モテる人の妻になると言うことは、たったひとつを手に入れた安泰の勝者ではなく、
いつ何どきタイトルを奪われるかも知れない、危機感を背負った孤独な
ディフェンダーなのかも知れない。
三杯目のワインを飲み干した頃、やっとホンギが戻ってきた。
「ごめんごめん!ついあっちで話し込んじゃった。」
「遅いーっ!待ちくたびれた。私もあっちでお喋りしてくる!」
雪見は、今だ二人で話し込んでる健人とローラから衝動的に離れたくなり
ガタンと立ち上がったのだが、ホンギに腕を掴まれ阻止された。
「居ないとダメだよ。ユキミはケントの隣りから離れちゃダメだ。」
「…えっ?」
痛いほど強く掴まれた腕と、それ以上は言葉で伝えない瞳…。
自分の思ってることとホンギの瞳が訴えてることが合致した気がして、
思わず身震いがした。
その時である。
ホンギと反対側の耳にフッと息を吹きかけられ、「ひゃあ!」と思わず肩をすくめた。
「け、健人くんっ!?」
「なーにホンギとじゃれてんだよっ!」
珍しく酔った口調の健人が、口をとがらせて雪見の顔を覗き込む。
「えっ?じゃれてなんかないよーだ!健人くんこそ…。」
言ってはいけないと思ってたのに口が滑ってハッとした。
だが健人はその言葉に気付いたのか気付かなかったのか、雪見の耳元に口を寄せ小声で囁く。
「ねぇ、もう帰りたい。やっぱゆき姉と二人っきりで飲みたいから帰ろ。」
思わず目を丸くして健人を見ると、彼はカウンターに頬杖つきながら雪見を見つめ、
反対側の手でなぜか雪見の頭をよしよしと撫でた。
「あ…。」
健人は雪見の心をお見通しだったのだ。
よく我慢したね、という意味のよしよしに違いなかった。
そうだ。彼が私を悲しませるはずないことを、私は忘れかけていた…。
「そうだね…。最後の夜くらい、めめとラッキーと一緒にいよっか。
ホンギくん、悪いけど私達先に帰ってもいい?私、明日の荷造りもまだなの。
あ、ここの会計は済ませて帰るから、みんなはまだまだゆっくりしてて。」
雪見の言葉にホンギは親指を立て、ニカッと笑って同意した。
「おーい、みんなぁ!ケントとユキミはケッコンショヤだから帰るってー(笑)」
「なに?なに?ケッコンショヤって。」
「どーいう意味の日本語?」
「ちがーうっ!今日はケッコンショヤじゃないっ!でも俺たち新婚ですから♪」
「健人くんっ!」
雪見は酔って上機嫌な健人に苦笑いしつつ最後に一人一人とハグをし、
来月の発表会は必ず観に来ることを約束して健人と店を出た。
「あー外の風が気持ちいいねっ♪
けど、どうしちゃったの?健人くんがこんな短時間で酔うなんて珍しい。」
「あ、ちゃんと酔っぱらいに見えた?だったら作戦成功だな(笑)」
「えっ…?」
「ほら、ローラがなかなか離してくれなかったから。
そりゃ芝居の相手だからコミュニケーションは大事だけど、今それより大事なのは
ゆき姉との時間だから。あ、タクシー!」
嬉しくなった雪見が健人の腕にしがみついた時だった。
後ろからハイヒールの音が近づき振り向くと、なんとローラが立ってるではないか。
「私も同じ方向だから、タクシー乗せてくれる?」
「えっ!あ、あぁ、いいけど…。」
健人と雪見は今の話を聞かれはしなかったかとドキドキ。
ローラを先に乗せ、健人、雪見の順に乗り込んだ。
何となく気まずく、雪見は窓の外のネオンをずっと見てる。
すると、これ見よがしにローラはまた健人に笑顔を振りまき、一方的にお喋りを始めた。
そして大胆にも健人の太股に手を乗せてきたのだが、健人はスッとその手を掴んで下ろさせた。
「あ、運転手さん、ここで止めて下さい!
おつりはいらないから、彼女を家の前までちゃんと送り届けて。」
じゃ!と言いながら雪見と健人がタクシーを降りる。
が…なぜかローラまでもが一緒に降りて来た。
「大丈夫だよ、このまま乗って帰っても。歩いて帰るのは危ないよ!」
「そうよ、遠慮しないで乗って帰って。」
「いいの、私の家はここだから。」
「えっ…?」
ローラが指差す先は、これから健人と雪見が入ろうとしてるアパートメントの入り口だった。
- Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.509 )
- 日時: 2013/10/04 20:42
- 名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)
「うっそ…。ローラもここに…住んでんの?」
健人と雪見は絶句した。
まさかローラがこの高級アパートメントの住人だなんて…。
雪見は突如襲ってきた得も言われぬ不安に、心臓をギュッと掴まれた。
「あら、ケントもここに住んでたの?知らなかったわ。
じゃあ明日からは、稽古が終わったら一緒に帰れるわねっ♪」
ローラの口振りは、明らかに「知らなかった」という口振りでは無く、
小首を傾げて健人に向かってクスッと笑った。
なんなの、この人…。
私の存在を完全に無視しようとしてる。まるで眼中に入ってないみたいに…。
昨日私達が結婚したこと、あなただって知ってるでしょ?
「ま、まぁ取りあえず入ろ。今朝みたいに人が集まると面倒だから。」
健人が雪見の背中を抱くようにして、二人は足早にエントランスへと入る。
その後ろ姿をカッと睨みながら、ローラもまたドアをくぐった。
「ローラお嬢様、お帰りなさいませ。
斉藤さまご夫妻とご一緒でいらっしゃいましたか。」
コンシェルジュのマーティンが、いつにも増して丁寧に頭を下げる。
その様子から、ローラはどこかいいとこのお嬢さんなんだと薄々理解した。
まぁ、こんな高級アパートメントが自宅なんだから、それは間違いないだろう。
「ただいま。パパは帰ってきたかしら?」
「はい、つい先程お戻りになられました。今夜はとてもご機嫌良くていらっしゃいます。
何でも、素敵なお客様がこれからお見えになるとか。」
「そう!そんなにご機嫌だった?じゃあ早くお連れしなきゃね、お客様を。
ケント!パパがあなたに会いたがってるの。きっとお酒の用意をして待ちわびてるわ。
さぁ、行きましょ!」
いきなりローラが健人の手を取り、エレベーター方面に歩き出そうとしたので
雪見は勿論マーティンまでもが驚いた。
詳しい事情は解らぬが、これはただならぬ状況なのでは…と息を飲んでる。
「ちょ、ちょっと待ってよ!健人にあなたのお父様が、何の用があるって言うの?
私、健人の留学中はマネージャーも兼任してるの。
悪いけど今日彼は疲れてるから、早く帰って休ませるわ。」
さすがにムッと来た雪見は、健人を連れて行かれてなるものか!と
語気を強めて停止命令を出す。
ところが…。
ローラはそんな雪見を微かに鼻で笑い、負けてなるものかと強烈なパンチを繰り出した。
「あら、マネージャーのくせして、タレントを置いて一人で帰国しちゃうの。
随分と放任主義のマネージャーさんね。
大事な商品に傷が付かないよう、せいぜい遠くから見守ればいいわ。」
「ローラっ!どうして雪見にそんな事を言うの?」
健人が間髪入れずにローラをきつく制したのだが時すでに遅く、雪見は心を負傷した。
そうだね…。ローラの言う通りかもしれない…。
いくら母さんの体調が悪いからと言って、健人くんを一人残して帰国するなんてね…。
ローラの言葉がボディブローのように効いて、雪見は思考回路も動きも封じ込められた。
その隙に、今がチャンス!とローラは健人の腕を再び掴んだ。
「ユキミは明日の荷造りが済んでないんでしょ?それは早く帰って準備しなきゃね。
心配しないで。どんなに酔ったって同じマンションの中だもの。
ちゃんと私が送り届けるから安心してちょうだい。じゃ行きましょ♪」
「ちょっとぉ!」
ローラに腕を引かれた健人はエレベーターが閉まる瞬間「すぐ戻るよ。」と言った。
何も心配しないで、と微笑んだ目は伝えてきたのだが、雪見はただ茫然と
二人が消えたエレベーターのドアを見つめるしかなかった。
「雪見さま…。今日のところは斉藤さまの判断が正しいかと存じます。
後々を考えると、あの御方の機嫌は損なわない方が得策かと…。」
マーティンが雪見を気遣い、穏やかな声で助言する。
その声にハッと我に返った雪見は、何でもいいからこの状況に納得のできる説明が欲しいと
マーティンにすがった。
「いったいローラの父親って何者なのっ?
どうして機嫌を損なわない方がいいの?ねぇ、教えてっ!」
「いや…口が過ぎました。今の言葉はお忘れ下さい。
私にはお客様に対しての秘守義務がございます。どうかお察しを。
ただ…。今朝私が申し上げましたお客様のうちの一人…とだけお伝えしましょう。」
「今朝マーティンさんが言ったお客様の一人…?」
雪見は頭をフル回転させて、今朝の状況と会話をプレイバックさせる。
マーティンと今朝交わした会話って…?えーと、今朝は…。
そうだ!健人くんと学校に行こうとしたら、外に人がたくさん集まってて
正面からは出られなかったんだ。
他の住人にも迷惑かけちゃうって困ってたらマーティンが、このような事は他にも、って…。
「…あ!ローラのお父さんは有名人ってことっ!?
このアパートには著名人が何人か住んでるって、今朝言ってたわよねっ?
誰なのっ!?ローラのお父さんって。」
雪見にすがられたが、マーティンは静かに首を横に振った。
「申し訳ございません。私の口からはもう何も…。
斉藤さまがお戻りになられましたら、直接お聞き下さい。
どなた様でもご存じの方でございます。」
それだけを教えるとマーティンは静かに会釈をし、また自分の定位置に戻った。
誰でもが知ってる有名人…。
誰だろ…。一体誰なんだろう…。どうして健人くんを…。
どうしよう…。明日私が帰国したら、この先はどうなってくんだろ…。
どうしよう…どうしよう……。
玄関の鍵を開け、健人のいない寝室によろよろと迷い込んだ雪見は、
からっぽのスーツケースの前にペタリと座り込んだ。
『どうしよう…』という言葉だけが頭に浮かび、まるで前には進めなかった。
その頃、健人は…。
「パパ、ただいまー!ケントを連れてきたわよ♪
ケント、遠慮しないで入って。紹介するわ、うちのパパ。」
「あ…!」
健人の部屋より更に広いリビングに通され、そこに居た人物が振り向いた瞬間
息が止まりそうに驚いた。
パパと紹介されたのは、今もっともハリウッドで活躍する人気俳優のうちの一人、
ロジャーヒューテックだったのだ。
「は、初めまして!日本から来た斉藤健人と言います。
ローラさんとはアカデミーで一緒に…」
「まぁ堅い挨拶はやめにしよう。待ってたよ。どうぞ座りなさい。
君に会えるのを楽しみにしてたんだ。
なんたってローラの相手役のロミオだからねぇ。
もちろん当日のスケジュールはもう空けてある。楽しみで仕方ないよ。
さぁ、まずは乾杯しよう。」
緊張でぎこちない会話しか出来ない健人のグラスに、その大俳優は笑ってワインを注ぐ。
何の心の準備もないまま、こんな状況になるなんて…と健人は夢見心地だ。
その隣でローラが満足げに微笑んでる。
もう…あなたは私の手の中にいるのよ、と…。
- Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.510 )
- 日時: 2013/10/09 05:52
- 名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)
「おいおい、そんなに緊張しなくてもいいよ。同業者じゃないか(笑)
まぁ遠慮せずに飲みなさい。酒は嫌いじゃないだろ?」
「は、はいっ。じゃ…頂きます。」
雲の上の存在であるハリウッドの大スターに恐れ多くも同業者と呼ばれ、
堅くならぬ若造がどこにいる。
仕事について聞いてみたいこと話したいことが山ほどあるのに、
あまりの緊張でスムーズに言葉が出て来ない。
こんな時、ゆき姉が一緒に居てくれたら…。
ゆき姉に話したらビックリするよね、この状況。
まさかローラのお父さんが、あのロジャーだなんて。
ついこの前、二人で映画を観に行ったばっかだもん。
ゆき姉にも会わせてあげたかったな…。
とにかくここに頼りになる雪見はいない。自分でどうにか会話せねば。
まずは少し飲んでこの緊張を和らげようと、ぺこりと頭を下げてから
いかにも高級そうな深紅のワインをゴクッゴクッと二口飲んだ。
が、年代物のワインは濃厚すぎて、何か料理やつまみと合わせなければ
そう飲めるもんじゃない。
「これ…頂いてもいいですか?」
健人は、テーブルの上のオードブルがとても美味しそうだったので
「頂きます!」と、まずはスモークサーモンのマリネに手を伸ばした。
「うまっ♪♪」
マリネを食べてワインを飲むと更に両方の味が引き立ち、思わず顔がほころぶ。
「君は実に美味しそうに物を食べる人だね。見ていてとても気持ちがいいよ。
こっちのスパニッシュオムレツも食べてみてくれ。私の自信作だ!」
「えっ!ロジャーさんが作ったんですか!?もしかして…この料理全部?」
ワインのお陰で気持ちが少しほぐれ、つい意外だという顔して聞くと、
ロジャーは大きな声で笑って健人に質問した。
「アッハッハ!どう見てもキッチンに立つようには見えないだろ?
ところが料理は私にとって一番の息抜きなんだよ。仕事の頭を休ませてくれる。
今日は時間が無かったから簡単な物しか作れなかったが、私の作るビーフシチューは
プロ並みに美味いと自負してるよ(笑)近々君にもご馳走しよう。
そう言う君の方こそ料理はしないのかい?」
「あ…僕はまったく料理はしないです。奥さんが料理の天才だから。」
「奥さんっ!?君は結婚してるのか!」
「はい(笑)まだ籍は入れてませんが、実は昨日式を挙げたばかりで…。」
健人は少し滑らかになってきた会話にホッとして、照れ笑いしながら
ロジャー自慢のスパニッシュオムレツを頬張り「めっちゃ美味いです!」
と、嬉々としてまたワインを飲んだ。
娘が会わせたがってた相手だから、てっきり未婚の彼氏だとばかり思い込んでたロジャーは
『おい、聞いてないぞ。』という顔でローラを見る。
しかし彼女は『それがどうしたの?』という表情で父親を見返した。
「まぁ…な。うちの家訓に、未婚じゃなきゃいけないっておきてはないし…。
そもそも、俺がそんなこと言える立場でもないからなぁ…。」
「…?」
健人は『家訓』とか『おきて』というような単語をまだ知らなくて、
ロジャーが今言ったことをよく理解出来なかった。
だが、彼の話し方がざっくばらんに砕けてきたのが嬉しかったので、
『話の内容は理解出来なくても取りあえずは笑顔』という、よく日本人がやらかす
間違った態度を取ってしまった。
その笑顔に俄然機嫌が良くなったローラ。
今まであえて口を開かず、黙って父と健人の成り行きを見守ってたが、
父の許しとも取れる言葉とそれを否定しない健人に喜び、急に饒舌に語り出した。
「パパっ!ケントはね、日本ですっごーく人気があって高く評価されてる俳優さんなのよ。
そんな人と一緒にお芝居が出来るなんて素敵でしょ?
私、世界一可愛いジュリエットになってロミオに愛してもらうから、
パパも本番を楽しみにしててねっ♪」
ローラはニコニコしながら隣りに座る健人の腕にしがみつく。
豊かな胸がグイッと腕に食い込むが、それは意図的なのか偶然なのか。
だが、大俳優の前でその娘をぞんざいに扱うことも出来ず、健人はやんわりと
「あの料理も美味そうだから皿に取ってくれる?」とローラに頼んで腕から逃れた。
それから話し込むこと二時間あまり。
ロジャーは酒が進むほどに自分の経験談や役者論を、身振り手振りを交え
ユーモアたっぷりにわかりやすく話してくれた。
それを健人は目を輝かせ身を乗り出して楽しそうに聞き、更に色々な質問を投げかけてくる。
この仕事が好きで好きでたまらなく、もっと上手くなりたい、もっと上を目指したい、と。
そんな健人をロジャーが気に入るのは当然だった。
「君は実にいい青年だ!いや、青年なんて言い方は失礼だな。
きっと君は頭のいい役者だろう。現場でもみんなに好かれるはずだ。
この私が君を好きになるくらいなのだから。
いつか必ずハリウッドを目指しなさい。君と共演出来る日を今から楽しみにしてるよ。」
「ほんとですかっ!?ありがとうございます!」
たとえそれが社交辞令だとしても嬉しかった。早く芝居がしたくてウズウズしてる。
何だか凄いロミオを演じられる気がして、明日が来るのが待ち遠しい。
あ…!でも明日…ゆき姉が帰っちゃうんだった…。
それなのに俺、こんなとこで何してんだろ…。
ゆき姉んとこに帰らなきゃ!
急に夢から覚めたように健人は、家で一人、荷造りしてるであろう雪見を思い出し
ガタッと席を立つ。
「あの…今日はこの辺で失礼します。とても美味しい料理とお酒、ご馳走様でした。
お話もたくさん聞けて嬉しかったです。」
突然帰ると言いだした健人を、ローラは慌てて引き留める。
「まだいいじゃない!同じアパートに住んでるんだから。
もっとケントの話が聞きたい!ケントをいっぱい知りたいの。私達究極の愛を演じるのよ?
早くお互いを理解し合って、本物の恋人同士に見えるくらいにならなくちゃ。
ねっ、いいでしょ?もう少し。」
「そうだよ、ゆっくりして行きなさい。」
「ありがとうございます。でも家で奥さんが待ってるから今日は帰ります。
明日帰国しちゃうんで。」
「えっ!結婚したばかりなのに帰国、って…。ケンカでもしたのかい?」
ロジャーが驚いた顔して健人を見たが、健人は笑ってる。
「違いますよ。僕たち喧嘩なんてしません。凄く仲いいんです。
でも今回はどうしても一旦帰国しないといけない事情があって…。
僕は彼女のいない人生なんて考えられない。
離れていても絶対彼女以外目に入らないだろうなってくらい…愛してます。」
健人はロジャーの目を見てキッパリ言い切った。
隣りで痛いほどの熱い視線を浴びせ続けるローラにも言い聞かせるように。
彼女の表情がどれほど歪んだか、あるいは無表情だったかは
視線を合わせなかったのでわからないが、これだけ伝えたらわかってもらえるだろう。
「…そうか。それは早く帰った方がいい。大事な時間を潰させて悪かったな。
今日は楽しかったよ。今度は是非奥さんも連れて遊びにおいで。
あ…一ヶ月間だけ、娘の相手をよろしく頼む。」
「わかりました。必ず二人で良い舞台を作り上げてみせます。
期待して待ってて下さい。」
健人はロジャーと固く握手を交わし、ローラに「じゃ、また明日。」と
微笑んで玄関を出て行った。
「きっと…お前に勝ち目はないよ。今回は諦めるんだな。」
健人の後ろ姿を見送ったロジャーは、慰めるようにローラの肩を優しくポンと叩き
リビングに戻って後片づけを始める。
だが、そんな父の言葉を娘は鼻で笑った。
あんたにそんなこと言われる筋合いはないよ…と。
- Re: アイドルな彼氏に猫パンチ@ ( No.511 )
- 日時: 2013/10/17 00:49
- 名前: め〜にゃん ◆qUW4buJWjM (ID: nVQa3qMq)
「ただいまー!……ゆき姉?…ただいまっ!」
いつもなら即座に「おかえりー!」と明るい声が聞こえ、パタパタと駆けてくるのに。
ブーツの紐を解いてる背中にピョンと飛びつき「お疲れっ!」と頬にキスするのに。
聞こえてきたのは「にゃあ」と小さく返事したラッキーの鳴き声だけだった。
まさか…!
一気に酔いも醒め、慌てて居間やキッチン、寝室を見回すがどこにも居ない。
と、その時、浴室の方からジャーッ!という水音が。
急いでドアを開けると…いた!そこに愛する人はいてくれた。
「ゆき姉…。」
「あ…お帰りっ!早かったね。まだ帰って来ないと思ってお風呂掃除してた。
お湯が溜まるまで、もう少し待って…キャッ!」
いきなり健人に抱きつかれ、手にしてた濡れスポンジと洗剤を落としそうになる。
酔ってるのか。それともローラの家で何かあったのか。
「ねぇ、どーしたの?何か…あった?」
健人がローラに連れ去られてからというもの、ずっとマーティンの言葉が頭で渦巻いてる。
『あの御方の機嫌は損なわない方が得策かと…。』
機嫌を損なうとどうなるの?一体ローラの父親は…誰?
聞きたいことはたくさんある。
でも根掘り葉掘り聞くのはいけないとも思ってる。
健人が住む世界は特殊な世界。
たとえ妻であろうとも、立ち入ってはいけない領域が有るはずだ。
だから健人から話してくれたら聞くが、自分から詮索することはしない
と付き合い出した時、心に決めた。
しかし、健人の答えは予想と違ってた。
「何にもないよ…。ゆき姉が…もういなくなっちゃったのかと思っただけ…。」
「えっ…?」
まただ。同じ理由で抱き締められるのは、これで何度目だろう。
結局、結婚式を挙げたところで健人は、何の安心も保証も手に入れてはいなかった。
知ってるよ。知ってる。
健人くんがどれだけ寂しがり屋で孤独が嫌いなのかを…。
手の中にある幸せが、するりと逃げてく恐怖にいつも怯えてることも…。
なのに…ごめんね。
明日帰って来た時にはもう「お帰り」って迎えてあげられないんだ…。
自分の悲しみよりも、健人の悲しみを思って泣きそうになる。
だけど泣かない。今泣いてしまったら…きっと明日帰れなくなる。
今夜は無理にでも笑っていよう。
「え?そんな理由?あははっ!
健人くんに黙って、いなくなったりなんかしませんって。子供みたいだよ(笑)」
「子供で…いいよ。」
キスもせず、ただ母にすがりつくように抱き締めるだけの健人が余計に切ない。
ローラの家での出来事なんて、今は取るに足らない事なんだね。
タクシーの中で香ったローラの香水が微かに立ち上ったとしても、今はそんなこと
どうでもいいや。
せめて今夜は、しばらくのあいだ蓄えておける安らぎを与えたい。
「もぅ仕方ないなぁー。ほら、よしよし。いい子いい子!
あ…!スポンジに残ってた泡が付いちゃったよ(笑)
ねぇ、一緒にお風呂入ろっか?そーだ!お風呂ん中でカラオケ大会しよう!」
「え?カラオケ大会?」
「開けてー!」
雪見が曇りガラスの向こうで叫んでる。
先に入って待ってた健人がドアを開けてやると、はにかみながら「飲も♪」と
グラスとシャンパンを差し出した。
「約束してたもんね、お風呂でワイン。結婚祝いだから、とっておきのシャンパンにした。
けど健人くんはもう酔ってるから一杯だけねっ。あとは私が飲んであげる♪」
「えーっ!ズルっ!」
ぬるめのバスタブに向かい合わせになり、健人がいい音を立てて開けたシャンパンを
雪見が突き出すグラスに注ぐ。
すると琥珀色の泡粒の向こうに、ツンと上向いた程良い大きさの胸が見えた。
「うーん、やっぱ俺はこれくらいがいいや。」
「え?なに?あ、やっぱ結構飲んできたんでしょ?じゃ一杯くらいで丁度いいね。」
ローラの豊満な胸と比べられてるとはつゆ知らず、雪見は健人のグラスに
琥珀色を満たしながら、お門違いなことを言ってる。
それが可笑しくて健人はクスクスと笑ってた。
「…?」
今の会話の何が可笑しかったのかは知らないが、健人が笑ってくれた。
それだけでホッとして、心が軽やかに鼻歌を歌い出しそうだった。
「じゃあ、カンパーイ!う〜ん、美味しっ♪お風呂でシャンパン、サイコー!
あ、でも酔いが回るの早いから、とっととカラオケ大会しよ。」
「カラオケ大会って…ただの歌合戦でしょ?」
「健人くんも気付かなかったでしょ?このテレビ、インターネット回線が繋いであるんだよ。
だからカラオケ出来るの。もっと早く気付きたかったぁ!」
「え?そーなの?イチャイチャばっかしてたから、テレビの存在なんて忘れてた(笑)
よっしゃ!歌お歌お♪」
二人はのぼせないようバスタブの淵に腰掛け、グラス片手に次々と自分の好きな歌を歌ってく。
マイク無しでも声が良く響くバスルームは、絶好のカラオケルームでもあった。
「あ、どーしても健人くんに歌って欲しい曲を思い出した♪
歌えると思うから入れるね。」
流れてきた曲は、尾崎豊の『oh my little girl』
健人は、あんまり歌ったことないけど…と言いつつも、雪見の想像通りの歌を聴かせてくれた。
「やっぱ思った通りだ。健人くんの声にこの歌、凄く合ってる!
持ち歌にするといいよ。絶対いいっ!
なんか、私に作ってくれた歌みたいに心に染みたもん。」
「そう思った?だって『とても小さくとっても寒がりで泣き虫な女の子さ』
って、まったくゆき姉のことじゃん(笑)」
「女の子かどうかは疑問だけどね(笑)私、健人くんの歌、温かくて大好き!
人が書いた歌詞なのに、健人くんが歌うと自分の言葉に聞こえるの。
お芝居もそう。台本に書かれてるセリフなんだけど、健人くんの口を通すと
それは健人くんの言葉に生まれ変わる。
言霊っていうのは本当にあるんだなって実感するよ。
だからね、言語が変わっても大丈夫。
英語のセリフにだって、きっと健人くんの魂が宿るよ。だから大丈夫。」
「えっ…?」
雪見は見抜いてた。健人の不安を。
発表会の主演に選ばれたのは嬉しいが、英語でのセリフに自信が無く、
自分の感情が上手く芝居に乗せられるのか、未知の世界に密かに不安を抱いてたことを…。
にっこり笑って「大丈夫」と言ってくれる雪見に、今までどれほど勇気をもらっただろう。
自分のことを何でもわかってくれて、そばに居るだけで心が落ち着き、
また歩き出す力が湧いてくる。
もう雪見のいない毎日はあり得ないのに、明日の朝にはお別れ…。
「やだ…。ゆき姉と離れたくない…。」
健人は雪見を抱き寄せ何度もキスをした。
どんなにキスを繰り返したところで、明日の運命が変わるわけでもないことを
知っていながら…。
「なるべく早く戻るから。それまで…いい子にしてて。」
雪見は最後の夜を健人の身体に刻みつけるように、熱い口づけでその全てを支配し始める。
このひとときだけでも愛しい人が不安から解放されるように、と祈りを込めて。
夜が更けるのもかまわず自らを同化させる行為は、自分の不安をかき消すためでもある。
同じ建物に住む正体の見えない魔物から、健人を守るための結界を張るがごとく。
明日からの摩天楼は一体、窓の外から何を見つめるのだろう…。
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